「こころ」夏目漱石 先生と私 つづき
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私の仮定ははたして誤らなかった。けれども私はただ恋の半面だけを想像に描きえたにすぎなかった。先生は美しい恋愛の裏に、恐ろしい悲劇をもっていた。そうしてその悲劇のどんなに先生にとってみじめなものであるかは相手の奥さんはまるで知れていなかった。奥さんは今でもそれを知らずにいる。先生はそれを奥さんに隠して死んだ。先生は奥さんの幸福を破壊するまえに、まず自分の生命を破壊してしまった。
私は今この悲劇について何事も語らない。その悲劇のためにむしろ生れ出たともいえる二人の恋愛については、さっき言ったとおりであった。二人とも私にほとんど何も話してくれなかった。奥さんは慎みのために、先生はそれ以上深い理由のために。
ただ一つわたしの記憶に残っている事がある。ある時花時分に私は先生といっしょに上のへ行った。そうしてそこで美しい一対の男女(なんにょ)を見た。彼らはむつまじそうに寄り添って花の下を歩いていた。場所が場所なので、花よりもそちらを向いて目をそばだてている人がたくさんあった。
「新婚の夫婦のようだね」と先生が言った。
「仲がよさそうですね」と私が答えた。
先生は苦笑さえしなかった。二人の男女を視線の外へ置くような方角へ足を向けた。それから私にこう聞いた。
「君は恋をしたことがありますか」
私はないと答えた。
「恋をしたくはありませんか」
私は答えなかった。
「したことはないでしょう」
「ええ」
「君は今あの男と女を見て、冷評(ひやか)しましたね。あの冷評のうちには君が恋を求めながら相手を得られないという不快の声が交っていましょう」
「そんなふうに聞こえましたか」
「聞こえました。恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。しかし....しかし君、恋は罪悪ですよ。わかっていますか」
私は急に驚かされた。なんとも返事をしなかった。
*
先生は死んでしまったのですね
これは過去にさかのぼる 長い話だったんですね
映画でも 見た後 誰かにうまく説明できる人は もう こういうふうに書ける人ですね
回想というのか
読者は 先生の死のあたりで そのことに気づくわけで
私だけですか?