「こころ」夏目漱石 先生と私 つづき
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先生と奥さんのあいだに起こった波瀾が、大したものでないことはこれでもわかった。それがめったに起こる現象でなかったことも、その後絶えず出入をしてきた私にはほぼ推察ができた。それどころか先生はある時こんな感想すら私にもらした。
「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。妻以外の女はほとんど女として私に訴えないのです。妻のほうでも、私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。そういう意味からいって、私々は最も幸福に生まれた人間の一対であるべきはずです」
私は今前後の行きがかりを忘れてしまったから、先生がなんのためにこんな自白を私にして聞かせたのか、はっきり言う事ができない。けれども先生の態度のまじめであったのと、調子の沈んでいたのとは、いまだに記憶に残っている。その時ただ私の耳に異様に響いたのは、
「最も幸福に生まれた人間の一対であるべきはずです」という最後の一句であった。先生はなぜ幸福な人間と言いきらないで、あるべきはずであると断わったのか。私にはそれだけが不審であった。ことにそこへ一種の力を入れた先生の語気が不審であった。先生は事実はたして幸福なのだろうか、また幸福であるべきはずでありながら、それほど幸福でないのだろうか。私は心のうちで疑らざるをえなかった。けれどもその疑いは一時かぎりどこかへ葬られてしまった。
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「最も幸福に生まれた人間の一対であるべきはずです」これが不審な言葉なんやな