「こころ」夏目漱石 つづき
八
「お前はきらいだからさ。しかしたまに飲むといいよ。いい気持ちになるよ」
「ちっともならないわ。苦しいぎりで。でもあなたはたいへん御愉快そうね。少し御酒を召しあがると」
「時によるとたいへん愉快になる。しかしいつでもというわけにはいかない」
「今夜はいかがです」
「今夜はいい心持ちだね」
「これから毎晩少しずつ召しあがるとよござんすよ」
「そうはいかない」
「召しあがってくださいよ。そうほうが寂しくなくていいから」
先生の宅は夫婦と下女だけであった。行くたびにたいていはひそりとしていた。高い笑い声などの聞こえるためしはまるでなかった。ある時は家の中にいるものは先生と私だけのような気がした。
「子供でもあるといいんですがね」と奥さんは私の方を向いて言った。私は「そうですな」と答えた。しかし私の心にはなんの同情も起こらなかった。子供を持ったことのないその時の私は、子供をただうるさいもののように考えていた。
「一人もらってやろうか」と先生が言った。
「もらいっ子じゃ、ねえあなた」と奥さんはまた私の方を向いた。
「子供はいつまでたったってできっこないよ」先生が言った。
奥さんは黙っていた。「なぜです」と私が代りに聞いた時先生は「天罰だからさ」と言って高く笑った。
*
天罰だからさ
おやおや これはどういうことになってきたんでしょう