「こころ」夏目漱石 つづき
五
私は墓地の手前にある苗畑の左側からはいって、両方に楓を植えつけた広い道を奥の方へ進んで行った。するとその端(はず)れに見える茶店の中から先生らしい人がふいと出て来た。私はその眼鏡の縁が日に光るまで近く寄っていった。そうしてだしぬけに「先生」と大きな声をかけた。先生は突然立ち留まって私の顔を見た。
「どうして....、どうして.....」
先生は同じ言葉を二へんくり返した。その言葉は森閑とした昼のうちに異様な調子をもってくり返された。私は急になんとも応えられなくなった。
「私のあとをつけて来たのですか。どうして....」
先生の態度はむしろおちついていた。声はむしろ沈んでいた。けれどもその表情のうちには、はっきり言えないような一種の曇りがあった。
私は私がどうしてここへ来たかを先生に話した。
「だれの墓へ参りに行ったか、妻がその人の名をいいましたか」
「いいえ、そんなことは何もおっしゃいません」
「そうですか。ーそう、それは言うはずがありませんね、はじめて会ったあなたに。言う必要がないんだから」
先生はようやく得心したらしい様子であった。しかし私にはその意味がまるでわからなかった。先生と私は通りへ出ようとして墓の間を抜けた。依徹伯拉(イサベラ)何々の墓だの、神僕ロギンの墓だのというかたわらに、一切衆生悉有仏生(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)と書いた塔婆(とうば)などが建ててあった。全権公使何々というのもあった。私は安得烈と彫りつけた小さい墓の前で、「これはなんと読むんでしょう」と先生に聞いた。「アンドレとでも読ませるつもりでしょうね」と言って先生は苦笑した。
先生はこれらの墓標が現わす人さまざまの様式に対して、私ほどに滑稽もアイロニーも認めてないらしかった。私が丸い墓石だの細長い御影の碑だのをさして、しきりにかれこれ言いたがるのを、はじめのうちは黙って聞いていたが、しまいに「あなたは死という事実をまだまじめに考えたことがありませんね」と言った。私は黙った。先生もそれぎりになんとも言わなくなった。
*
本というのは 読んでみることでもあるのだと 思いますので
それ以上のことを何も言えないのですから 黙って読ませてくださいね
この先生というのは あれやこれや言わないんですけど
「あなたは死という事実をまじめに考えたことがありませんね」と
黙っているということは何も考えていないということじゃないんだな
そう 思いました。
先生という相手の 心が読めない場面は 今まで読んできたなかでも ありますよね