畑正憲さんの動物王国の写真を よく見ていた
こんなに 象や大きな犬や いろんな動物たちと
心が通じ合えるものだろうかと そのたびに 驚いた
私は 2度 犬と猫とくらしたんだけど
そんなに 信じていたわけではない
疑り深いからだと 言ってしまえば それまでだけど
あっち側には 時に深い眼差しをみつけて もしかして
人間より 格が上なんじゃない? そう思ったことだった
ところで 「しつけは、押しつけでよい。」
畑さんは 公共広告機構で 書いている 1980年頃のものだ
子供をしつける場合、親と子がおたがいに納得いくまでとことん話し合う。そんなことは、ある面で非常に不自然なもんです。
遊んでからどうしてあと片づけをしなけりゃならないか、なぜお年寄りを大切にしなけりればらないか、挨拶はどのような理由で必要なのか、人に迷惑をかけないこととは伝々。こんなことをいちいち理屈で教えこむなんていうのは、まったく無意味なことと言ってよいでしょう。
わたしの娘が自分のあと始末をしなかったり、老人に対して失礼な態度をとったりしたら、私は即座に怒鳴りつけるでしょう。怒鳴ったと同時に殴りとばしてるんじゃないかと
思います。
なんて短気でものわかりの悪い親だ。と思われるかもしれません。しかし、この世の中にはウ呑みにしなければならんあいことが、いくつかあるんです。
しつけとは、ある意味では押しつけであると考えています。
これらはすべて、人間としての根本のきまりですよ。ひとつひとつ理屈で言ってたら
キリがありません。
私は北海道で動物たちと一緒に暮らしていますが、彼らにはもちろん理屈は通用しません。だから悪いことをしたら「ダメッ」と言ってピシャッと頭を叩く。それだけです。
彼らに教えるのは、生き物としての大まかな筋道だけですね。多分に甘やかしています。
ただ、私たちは動物と違って人ならではの規則を持っています。お国柄や時代によって多少の変化こそありますが、人間社会の長い歴史によって育まれてきた大原則が、現在に生きているのです。
それが文化の根もとをつくるものではないでしょうか。
人として生きていく上での原則を子供にしつけるのに、どうして論理的な裏づけが必要でしょうか。
親と子のコミュニケーションには、言葉だけではすまされないものがあり、それがとても大切だと思うのです。
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これを 自分のファイルの中に見つけたとき なんか なつかしいなあと思いました。
子育てのとき 少しは 影響を受けていたからです。この大事な当たり前のことは
きっと 動物たちの方が しつけられたかもしれません。
ま そんなことを考えながら 1980年頃はいったい 何年ほど前なのだと 計算してみますね。38年も前の話? どうなのかなあ よく計算間違いをしますから。
ここから話は 進みませんがな
しつけ この言葉 のこっているんかいなあ
えっ 我が家?