目玉 吉行淳之介著 新潮文庫 平成5年発行
目玉
大きい荷物
病院の玄関のところに出ると、空車が二台停まっていた。
これから、日比谷のホテルの地下アーケイドに行くのだが、そこまでではメーターの基本料金しか出ない。客待ちしているタクシーに乗ると、運転手は不機嫌になる。こちらも居心地悪いし不愉快なので、通りまで歩いて流しの車を拾った。
このコースは、ときどき使う。途中の渋滞もないし、日比谷で私をおろせば、すぐにまた客を見付けることができるのだろう。これまでトラブルはなく、目的地に着くことができていた。
車のシートに腰をおろし、「近くて悪いけど」
と、声をかけておいた。
虎ノ門の交叉点の赤信号で停まったとき、
「あーあ」
と、運転手が腹の底から絞り出すような溜息をついた。
タクシーに乗るといろんな目に遇うが、こういう生ま生ましいため息を聞くのは、はじめてである。どういう種類のものか、分りかねる。
締め切った車中に、においが微かにただよっているのに気付いた。香水
葉巻・腋臭など、すぐに見当のつくものではない。化学薬品のにおいとも、どうやら違う。薬物のにおいにはどこかに割り切れたところがあるが、これは動物のにおいのように絡まってくる。女性の体内のそこの方から滲んでくるにおいのようでもある。かすかに病んでいて、やや不快であるが、病気に伴う臭気とも違う。
走り出すと次の信号も赤に変って、運転手はブレーキを踏み、
「チェッ」
と今度は露骨に舌打ちした。
かなり事態が分ってきた。痩せた若い運転手は、膝のところにひろげた
業務日誌に記入しながら、呟いた。
「つづくときは、つづくもんだなあ」
これで、はっきりした。基本料金程度の客がつづくのを、嘆いているわけだ。ただし、客に当てつけている声ではなく、我が身の不幸を嘆いている声音である。客にたいする影響には気付いているのだろうか....、そんなことは頭にないようでもある。
車内のにおいが、すこし濃くなって、今では悪臭といえる。
内幸町を左折して、日比谷の交叉点のほうへ向う。
「ホテルのところの信号を、右に曲がりますか」
言葉づかいが丁寧なので、かえって落着かない。
「いや、信号のところで降ります」
あとは、広い道の横断歩道を向う側に渡ればいい。
***
なんだかこの小説 こわいですね
どうなるんでしょ
お客さんひきかえしますか?