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アラン先生の授業

アラン先生の授業 82 天馬 つづき

翼の発動機がなみたいていのものでないことを知るためには、ウズラかキジの輪郭を描いてみるだけで、十分である。小鳥全体が、翼のようなものなのだ。
 にもかかわらず、ウマの背中に翼をくっつけた彫刻家は、枚挙にいとまがない。そうした彫刻家たちは、けっして、彫刻家ではなかった。彼らはウマという動物を構築したのではない。彼らの思考は、筋肉や骨格にまでは、及びもしなかったのである。彼らは、大理石や青銅を使って、荒唐無稽な見せかけを製造したにすぎなかった。さて、こうした見せかけを、私は、目にもし、手に触れもする。しかし、同時に、見たり触れたりすることを、私は拒否する。このような翼が、このウマの一部であるあることを、私は認めることができないのだ。凝視する私、この私も、ひとしく、彫刻家である。私も、このような翼を、この背中にくっつけなければならない。しかし、背中には、翼の場所がないのだ。私には、できない。それは、ちょうど、三本の弱い円柱の上に、巨大な石の丸天井をつけてみろ、といわれるようなものである。しかし、建築には、嘘がつけない。重力は、こんな怪物を、たちまちのうちに、くずしてしまう。くずれないとしたら、それは、ボール紙か布かでつくったものだろう。さて、鑑識家の眼光は、この点、きわめてきびしい。彼は、実物の全量感と真実の均衡とを求める。おそらくは、この理由によって、時間の刻印が喜ばれるのであろう。なぜなら、その刻印は、石をむき出しにするからだ。布や石膏の装飾は、石柱と同じようには、すり減らない。したがって、建築の誠実さというものが存在する。それは、建築に内在的なものである。ミケランジェロが、建築は他の芸術の先生である、といったとき、彼は、こうしたことを考えていたのであろう。いずれにしても、翼を生やしたウマなどというものがありえず、したがって、真実でない、ということに変りはない。だから、私には、なんとしても、それが美しいとは思えないのである。

***

その作品が 美しいとは思えないわけ

たまにこんな難しい言い回しを読むと 頭のなかの血がへっていくのがわかるような気がします。

真実とはどういうことをさすのか

真実を追究しようとする それは 誰の中にあるのか

いろいろあるんでしょうが 今回はこのアラン先生の 真剣なところを
新鮮な気持ちで 聞かせてもらっています。
建築の分野からいくと あり得なくて 絵という表現からは あってもおもしろい なんてことを やわな自分は すぐにでも言ってしまいそうですが
それでは このアラン先生の授業を受けたことにはなりませんね
そして 絵という表現は いったい どういうところがあるのだろう
彫刻には 逆に どういう制限があるのだろう
ウマがたちあがったとき それは そこに立っていることが可能なのだろうか とか 翼をつけると どういうふうになるんだろうかとか
ミケランジェロが、建築は他の芸術の先生である、といった

ああ もう のりぞー



《 2018.11.15 Thu  _  読書の時間 》