アラン先生の授業 46 顔というもの
万人の鼻先に、否応なしにつき出される、ある種の表情というものがある。おしゃべりをどうしてもおしとどめることのできない、あの饒舌家のように、表情をどうしてもおしとどめることのできない目、鼻、口というものがある。新聞を買うときにさえ、相も変わらず、威圧的であったり、強迫的であったり、毅然としていたり、あるいはメランコリックであったりするひとが、よくいるものだ。年がら年じゅう笑っている男を、私は知っている。それは、ひとを愚かしく見せる、悲しき特権である。理知的な顔だちをしているひとを、わたしは気の毒に思う。それは果たすことのできぬ約束のようなものだ。ある意味では、なによりもまず、顔がものを考える。そして、実際の会話は、このものいわぬ答えとは、いつでも合致することがない。わたしの想像では、臆病さというものは、主として、この種のメッセージからくるものである。それは、ひとが、思わず知らず全面に送りだしていながら、自分では、それの意味がわからない。といったメッセージである。それゆえ、わたしは、鼻とか眉毛とか口髭とかのために、雇われ刺客のような顔をしている男に出会うたびに、これは臆病な男だろうと、見当をつけることにしている。しかし、その男は、こうした屈折をへることによって、またいっぽう、乱暴な男であるかもしれないのだ。ちょうど、衣裳(いしょう)だけは着けているけれども、自分の役がらがどういうものであるかを知らない、といった俳優のようなものである。
こうしたささやかな災難から、自分が意識しないかぎり、顔がなにものも意味しないように、訓練しなければならない、とする古代からの礼儀作法というものが、生まれたのである。支配者たる精神は、まず、局外中立という顔つきをして、たとえるならば防空壕に避難するときの顔つきをして、身をひかなければならない。こうした慎重さがなければ、精神は、顔つきの奴隷になってしまう。そして、いつも、顔つきがすらすらと応酬してくるその返答に、おくれをとってしまうことになる。精神も感情も、そして美すらも、すべて、まず隠さるべきであり、いわば留保さるべきである。人間の顔というものは完成されたものである。
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こうした慎重さがなければ、精神は、顔つきの奴隷になってしまう。そして、いつも、顔つきがすらすらと応酬してくるその返答に、おくれをとってしまうことになる。精神も感情も、そして美すらも、まず隠されべきであり、いわば留保さるべきである。人間の顔というものは完成されたものである。
知りたいなあ これどういうことでしょう?
顔がものを考える
手でもなく足でもなく?
年がら年じゅう笑っている男を、私は知っている。それは、ひとを愚かしく見せる、悲しき特権である。
名言だと思うけど
理知的な顔だちをしているひとを、私は気の毒に思う。それは、果たすことのできぬ約束のようなものだ。
これも 名言じゃない?そんなに理知的な顔なのに 理知的なことをやるチャンスがなかったら おしいでしょう?
美人が その美しさを充分使えてない そんな感じではないですか?
えっちがう?
「顔というもの」というタイトルで 選んでしまったんですが。
お客さん どーですか?どういう顔になりたいとか 考えてらっしゃいますか?
「理知的な顔にしてください」整形手術の時に言ったとします。
「もう ばっちり 中身は理知的にしてきましたから」
そのほかにも 興味深い発言が