わたしが31歳のとき 日記には色々なことを書いています
たとえば 子どもらの目をかすめて 2人で 喫茶店にはいったこと
これは かなりの技術がいるのです
「お父さんどこいくの ?」それで おじゃんだからです
わたしは今69歳ですが 喫茶店に行くのさえ おっくうです
うちでゆっくり お茶を飲みたいと思います
でも あのころは そういうことがしたかったのです
帝銀事件の平沢さんの事件は 無実だと言いながらも 30年間もの間 刑務所に入って
いる人 こういう人が 他にもいるということに わたしは驚いています
いったん 犯人とされてしまうと 取り調べがきつくて 嘘の証言をしてしまうと
それを 再び 無実だといっても 信じてもらえないことがあるらしい
そんなことを書いています
子育てでいっぱいで そんなとき 雑誌を見ると 活躍している人がまぶしい
子どもが風邪を引くと おちつかなかったこと いろいろぐちをふりまいたこと
いい母親にはなれていないという思い
父の思い出
我が家の事情
一冊の大学ノートに 書いてある
そこには いまにいたるまでの種のようなものがあり その種は こういうふうに
なったのかと 見せられる
全体が 見えて来るのだ
死ぬ前に いままでのことが 走馬灯のように見えるらしい
これは全体像をつかませようとする(つかもうとする)できごとなのかもしれない
日記は ある面でしかない 自分勝手な解釈ともいえる
それでも この歳になれば 見えて来るものがある
まいた種を刈り取るということ
それは 見えてきたことを はっきり認識することなのかも
話は変わりますが 上の写真は いまの陽ざしで いちにちのうちに
陽は そこからいろいろ 移って行きます
そのことが なんともいえず 秋なんです
まじ まじめにはんせいしてしまったなぁ のりぞー