かもめ 大宰治 つづき
私は小説というものを間違って考えているのであろうか、と思案にくれて、いや、そうで無いと打ち消してみても、さて、自分に自信をつける特筆大書の思念が浮かばぬ。確固たる言葉が無いのだ。のどまででかかっているような気がしながら、なんだか、わからぬ。私は漂泊の民である。波のまにまに流れ動いて、そうしていつも孤独である。よいしょと、水たまりを飛び越して、ほっとする。水たまりには秋の空が写って、雲が流れる。なんだか、悲しく、ほっとする。私は、家に引き返す。
家へ帰ると、雑誌社の人がきて待っていた。このごろ、ときどき雑誌社の人や、新聞社の人が、私の様子を見舞いに来る。私の家は三鷹の奥の、ずっと奥の、畑の中に在るのであるが、ほとんど一日がかりで私の陋屋(ろうおく せまくるしい部屋)を捜しまわり、やあ、ずいぶん遠いのですね、と汗を拭きながら訪ねて来る。私は不流行の、無名作家なのだから、その都度たいへん恐縮する。「病気は、もう、いいのですか?」必ず、まず、そうきかれる。私は馴れているので、
「ええふつうの人より丈夫です」
「どんな工合だったんですか?」
「五年まえのことです」と答えて、すましている。きちがいでした、などとは答えたくない。
***
この文章自体が そのものというか
いい作品というのは こういうことをいうのかもしれません
読む ただそれだけで
陋屋をろうおくと読むのか そのとき 辞書がどこにおいたのかわからなくなり
もうちょっとで ろうやをなやと読んでしまうところでした
ここは かなをふるところでしょうと 思いつつ