who am ?I

PAGE TOP

  • 03
  • 25

そのなかにひそむもの

スキャン3491.jpeg
「開けたページ」アウグスチヌス懺悔録 春秋社松柏館 昭和21年

この本をどこで手に入れたのか 覚えていません。
表紙も なくなっています。
で 320ページがあいたので 読んでみましょう。

第21章

どうして幸福なる生命が記憶の中にあり得るか

 併し、誰かカルタゴを見た人がこれを記憶するごとくでそれがあるだろうか。
否、そは幸福なる生命は目では見られない、形でないからである。然らば私共が数を記憶する如くであろうか。否、これをその知識でもってる人は、更にこれより到達しようと求めないからだ。併し幸福なる生命は私共自分の知識にもってその故にこれを愛し、そして
私共の幸福ならんために、なおこれに達しようと願うのだ。然らば私共が雄弁を記憶する如くであろうか。否、そはこの名を聴くと、またまだ雄弁でない人、または多くのそうなりたいと願う人がそのことを心に喚起し、それでそれが彼らの知識にあるということが見えると云え、なおこれらはその肉体的の感覚に由って、他のものが雄弁であるとみて悦ばされ、そしてこれに従わんと願うのであるのだ。勿論彼らはこれによってなにか内的な知識なければ悦ばされないので、または暫く悦ばされるでなければ、これに従うとも望むことないのであるが、これにはんし幸福なる生命はなんらの形体的感覚で他の人たちにあって経験するのでないのだ。それならまた、私共が歓喜を記憶するごときだろうか。さもあろう。そは私は私の歓喜を悲しいとき、しかり、不幸な時にさえ、それを幸福な生命だとして記憶する。また私は決して体的感覚もって私の歓喜を見もせず、聴きもせず、嗅ぎもせず、味わいもせず、また触りもせなかった、ただ私の楽しんだ時に私の心にそれを経験したのみだ、そしてその知識が私の記憶にふちゃくして、そしてあるときはそれを嫌悪でもって、或る時はその事柄の性質に従い、自分が歓んだと記憶するとき()恋の情もって想い出すのだ。そはずいぶん忌むべき事柄からも一種の歓喜に私は浸されたので、それを今想い出して私は忌み()うのである。また他の時は善なる正しいことで歓喜して、おそらくまた見ることはないのだろうが、それを()恋の心で想い出し、そしてその故に悲哀をもって昔時の歓喜を私は追懐するのであるからだ。


私が開いたページは このように 難しいことが書いてありました。
ただ 本当の幸せとは どういうものか 書いてあるような気がして 読みはじめたのでした。 自分は 全くわかりそうにない本の中に 光る言葉が潜んでるんじゃないのかと
思う癖があります。 それは かって ごみひろいに 夢中になったせいかもしれません。 雑多なごみのなかに 見つけたものは よかったのです。よくなかったときもありました。 でもごみひろいは うれしかったと 記憶されたのです私の中に。
この1ページの中にも つかめそうで わかりそうで しっかりとはわからなかった
言葉たちがあります。どこかといわれると 言うことができません 感じたような気がするからです。

バルバラ マクダレナ マリア 
あいたページに 筆で書いてあります

《 2018.03.25 Sun  _  1ぺーじ 》