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あくびをする にじます NEKO美術館発

「つげ義春、語る。」聞く人 山下裕二 ロング・インタヴュー(芸術新潮2014)
は このところ毎日のように 読むのが 楽しみです。これと 自分のバカバカしい
絵が らくがきちょうで 出番を待っているわけで。
つげさんは こういう事を言っています。

つげ この現実世界は本来あるがままで意味はないのに、そこを主観でもってさまざまに解釈し、意味付けをしてひとつの世界像を「創作」したわけでしょう。別の解釈をすればまた別の世界になる。ということは虚構の世界に過ぎない。しかし虚構では何の根拠もなく不安ですから「創生記神話」まで創作し、もっともらしくしているのではないですか。
 歎異抄も含めて浄土教を説いている「浄土」とは、虚構に惑わされず事実を直視した世界のことでしょう。仏教の原点はリアリズムで釈迦は凄いリアリストだと思えますね。でも自分はキリストも好きなんです。
山下 イエスという人が好きなんですか?
つげ そう。後のキリスト教団は嫌なんですけど、イエスの言葉は深いなあと思って。一例を挙げると、「貧しい人は幸いである、神の国はあなたがたのものである」という言葉に出会ったとき、直感ですぐ理解できたのですが、後年の研究では貧しい人とは「乞食」のことだったのですね。乞食は社会の枠組みからはずれ、関係としての自己から解放されています。自己意識も消えて、生も死も意識されることがなくなり、生きていることの不安も消える、その状態こそ神の国、天国ではないですかね。
 修道院にも憧れましたね。以前、蕎麦を食べに深大寺によく行っていたころ、途中に女子修道院がありましてね。高い塀がめぐらされていて、中はどうなっているんだろうなんて思っていました。「アサヒグラフ」で旅の仕事をやるようになってから、あの雑誌が毎号送られてきたんですけど、そしたらエーゲ海あたりの修道院を特集した号があって。それで修道院というものの在り方がわかったのですが、大勢で暮らす修道士とは別に崖の柵や洞窟などに弧住し、小さな畑など作り自給する者もいるんですね。そういう独居者は乞食のように社会から離脱して、やがては自己滅却して神の国へ、仏教流にいえば浄土に至る心境になるのでしょう。
 自分は信仰心はないけど、そういう生き方に憧れますね。

***

「ともかくリアリズムが好きですね」こう言うつげさんですが
「リアリズムってなんだ?」と読み進んで行くと ここまで読んでいたわたしです。
「浄土とは、虚構に惑わされず事実を直視した世界のことでしょう。仏教の原点はリアリズムで釈迦は凄いリアリストだと思えますね。」

よくわからないまま 「そうなんだ。そうかもしれない」わたしは いったい。

しかし魚は あくびをするのかなあ。中途半端なわたしは つげさんの憧れは いったい
どういうところにあるのだろうと。

はい今日はここまで 頭回転数0

《 2017.12.14 Thu  _   》