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木賃宿に雨が降る

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「木賃宿に雨が降る」高木譲 未来社 1980

目の前の本立てに この本があります。
きょうは 雨。 台風だそうです。
なぜか この本を開いてみたくなりました。その中の一つ_「好きななもの」
前のページは「夢」長いので 人差し指が疲れそうなので つぎの「好きなもの」
にしましたよ。

好きなもの

 食い物で、子供のころから変わらないわたしの好物は、ヒジキとアラメである。
 どちらもみすぼらしい海草類で、一皿や一袋が二十円か三十円のシロモノ(いまは値段が少し高くなったが)だ。そんなものが好物になったのには、なった理由があった。
 わたしがヒジキやアラメにお目にかかったのは、五、六歳のころからであったのを
覚えている。
 わたしの田舎は熊本県鹿本郡岩野村(現、鹿北町)で、福岡県の八女の(やめ)の県境にあった。そこらの山村の風習というか、ヒジキやアラメはだいたい葬式用みたいなもので、葬式の接待にはかかせない食い物といってよかった。
 あの辺りの田舎では葬式のお悔やみに行くと、かならずお接待に与った。出されるものはどこの葬式でも、あらかたきまっていた。呉汁(大豆を擂り潰して、味噌汁にしたもの)に、二重底のお椀に煮つけた三角のアゲ一枚とヒジキかアラメかを盛りつけにものと、米のめしが出た。
 死人があれば、わたしの田舎は戸数が十二、三軒だったので、部落総出で買物方、料理方、棺桶造り方、穴掘り方に分かれて、葬式の手伝いをした。
 分かれといっても、小さな部落のことゆえ、その顔ぶれはだいたいきまっていた。料理方なら料理方というようにお馴染みの顔ぶれなので、どこの葬式でも、お接待に出る呉汁や煮付け物の味は一定しているようなものだった。
 わたしは五つか六つのころ、一度葬式のお悔やみに連れて行ってもらったが、お接待に出たはじめてお目にかかったヒジキ(アラメだったかもしれない)を、すっかり好きになってしまった。一目惚れというところだった。それからというものは、葬式と聞かされると、両親のどちらかにねだって連れて行ってもらった。そうするとお手伝いだろうがお悔やみだろうが、親についてきた子供まで、一人前のお接待に与った。二重底のお椀に三角のアゲとヒジキ(アラメもあった)を山盛りによそってもらうことができた。
 いま、あのころの記憶を辿ってみると、一日越しぐらいに葬式があったような気がしてならない。
 隣り部落の葬式に連れて行ってもらったとしても、戸数がしれたものだったから、実際にはそんな馬鹿げたことがあるはずはなかったろう。だから、ほんとは葬式に連れて行ってもらったのは、二度か三度だったのかもしれない。
 わたしは子供のころは、葬式のほうがお祭りよりも、お祝いごとよりも好きだった。というわけで、おとなになってからも、葬式好きから抜けきれずに往生した。
 田舎の葬式は特別の分限者どんか、悪病持ちのほかはたいてい土葬であった、わたしはおとなになってから、部落の葬式の手伝いは、あまり人がやりたがらない穴掘りにまわしてもらった。
 穴掘り方は三人ということになっていたが、精進払い焼酎一升が出て、肴(さかな)にはヒジキかアラメの煮つけがついた。
 わたしが熊本県の田舎に住みついていたのは、子供のころとおとなになってからの一時期だったので、このごろは残念ながら、あのような葬式からとんと縁が切れてしまった。
 しかし、好物のヒジキやアラメの煮つけを食べる度に、あのころの葬式が、お祭りよりも何かのお祝いごとよりも、なつかしく思い出されるのはどうしたことだろう。

***

子供のころのお葬式や結婚式 どんな物が出されたか 思い出してみようと このページを読みました。わたしは高木さんより大分若いほうと思いますので ちょっとちがうのかもしれませんが ヒジキやアラメ カレイの煮つけは きっと 海に近い人たちのものですね。
すのもの しらあえ くろまめ は覚えています。家に村のおばちゃんたちが やってきて つくってくれるのです。子どものわたしは さっさと段取りよく そういう物をつくっているおばちゃんが いると 思っていました。いつもの顔ぶれだったからです。高木さんのいわれる料理方ですね。結婚式は仕出し屋さんがいたように思います。お葬式のときだけだったんじゃないかな。とはいうものの 子どものわたしが そういうことをよく知っているわけではないので しらあえが うちのよりおいしいと思ったのは 覚えています。

子供って どこにでも付いて行きたかったし たまに実現すると 高木さんのように忘れられない味に出会うんですよね。決して豪華な物ではなく 村の料理方さんの手慣れた 安定した味付け 忘れられませんよね。
《 2017.10.22 Sun  _  1ぺーじ 》