「猫たちの隠された生活」エリザベス・M・トーマス
カラハリのライオン つづき
もしかすると、わたしたち人間がほかの動物たちを蹂躙(じゅうりん ふみにじること)できるのは、わたしたちがコミュニケーションの術に長けているからではなく、劣っているからではあるまいか。彼らがなにかを要求していても、わたしたちには読み取れないことが多い。そのため動物には人間の願いを聞き入れることができても、人間のほうはめったに聞き入れない。ただし象はちがう。象はほかのどんな動物ともちがって、人間を動かすことができる。あるとき、わたしの接近をいやがった象が、まるで散弾のように砂をひっかけてきた。わたしはただちに彼の気持ちを察し、その後は彼の境界線に踏み込まないように細心の注意を払った。ついでながらその境界線とは、檻の柵でも通り道になっている場所でもなく、彼自身の心の中にある、目に見えない、しかし動かしがたい線なのだ。
人間とのコミュニケーションをはかろうとするたびに、動物は新たな手法を開拓する。そこには確立された方法は存在しないのだ。動物が種族のあいだで知れ渡り、有効になっている手段を試す場合もある_なにかを要求したいとき、犬はたとえば、吠えたり、じっと見つめたり、鼻を鳴らしたりする。いずれも犬同士のコミュニケーションではうまく通じる手段である。
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もしかすると、わたしたち人間がほかの動物たちを蹂躙できるのは、わたしたちがコミュニケーションの術に長けているからではなく、劣っているからではあるまいか。
コミュニケーションの術 にんげんのほうがほかの動物より劣っているのかもしれませんね。植物も生きものですね。やはりコミュニケーションの術は植物の方が やってみれば
すぐれているかもしれません。わたしは まえに 向日葵の葉っぱと握手して 日々話し続けたことがあります。冗談のつもりでした。ところが そのひまわりだけが ものすごく背が伸びたんです。とうとうその理由を 向日葵から聞き取ることはできませんでしたが。