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母の「思いで帳」

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母のこと NEKO 美術館発

私は 母から いろんな思い出話を聞いたつもりをしていましたが
小さな母の思いでノートを読んでみますと 知らないことが 結構ありました。

私は 唯一人になった兄にも 読んでもらいたくて 書き写してみます。
ここからが 母の書いている話です。

「私は学年の進むにつれて性格がかわってきた。まけずだましいで 勉強もやり出した。
放課後には男女そろって遊んだ。じんとり犬せいが講堂の隅などをおおぜいでせめていく。私は先頭になって皆を押しのけて勝った。
そのときの友大造、クス、平八郎、ゆき、のぶ子さん、井上イオエ。

幼い頃やさしい祖母がいた。境港から少し入った田舎 浜という所が祖母の実家であった。幼い頃遊びに行った。家の前に大きなみかんの木があって 真っ赤な小さいミカンが
たくさんなっていた。田畑のない私たちは畑がめずらしく いもほりが楽しかった。
行く時は魚をさげて 行き帰りは野菜をどっさりもらって帰った。
畑のない町には近くの農家の人たちがどっさり野菜を持って来て大八車で関(美保関)中をうってあるいた。
物々交換で魚と野菜を好感していた。
おとら姉(母の兄のよめさん)が来てからは里から野菜やところてんを どっさりもらった。 里には山にビワの木があった。おとら姉の母が おいこにいれて いろいろもってきてくれた。
やさしいおとら姉の母だった。

***

上の作品の向かって左側は 母の年取ってからの顔を わたしが描いたものです。
向かって右側は もう今はいない ちいさな母が 飛んでいるようでしょう?

母にはお父さんやお母さんがいて おじいちゃんやおばあちゃんがいたわけで。
そのおばあちゃんのところの 様子が書いてありますね。
ずっとずっとさかのぼるわけですね。それを想像してみるのも いいもんですね。

私も 子どもの頃の様子を案外よく覚えています。 昨日食べたものさえ 思い出せないのに 不思議とね。きっとそれは 昔の思い出の 数少ない1コマにすぎないんでしょうけれども。
母は一緒に遊んだ子らの名前まで覚えていますね。
母は幼い時は体が弱くて それから大きくなるにつれて 負けん気が強くなったようですね。 母は7人兄弟 母の下には弟と妹がいます。
母の実家は海辺 母のおばあさんのところでは いもほりをしたんでしたね。 兄嫁さんのところは畑の野菜。それぞれが物々交換をしたりして そんなところだったんですね。

母のこの小さなノート「思い出し帖」がなかったら おそらく このとおい先祖のことはわからないままだったでしょう。とおいといっても わたし→ 母 母の母 母の祖母 ここらへんのことですが。 
《 2017.07.12 Wed  _   》