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セザンヌの手紙

「セザンヌの手紙」
中年期 つづき

エミイル・ゾラ宛(パリ)1880年4月1日

 親愛なるエミイル。
 今朝ギイユメの手紙を同封した君からの手紙を受け取った後、すぐにパリへやってきた。そしてギイヨマンから印象派展覧会が目下開かれていることを聞いたので、早速会場へ駆けつけたものだ。するとどうだろう、思いがけなくアレキシスに会えたんだ。ぼくはひさびさの出会いを喜び合った。医者のガッシェさんが二人を晩餐に招待してくれるという。アレキシスは君に約束があると言って仕切りに躊躇していたが、ぼくが無理に引き止めてしまったのだ。悪く思わないでくれ。
 ところで、今度の土曜日の晩、みんなで一緒にめしを食いたいと思うが、都合はつくかい?駄目なようなら至急報せてくれたまえ。僕が今いるのはウエスト街三十二番地だ。
 僕は、ブウルボンちゅうがくいらいの君の古い友達であることを今さらながら幸福に思っている。
 奥さんによろしく。

***

このあと セザンヌは「ルノアールとモネエが美術局長官に宛てて当局の処置に抗議し、かつ印象派画家一堂のみによる展覧会の開催を要請せんがために連名で差し出すつもりである手紙の写しを、ここに同封して送る。実は、君に次のことをお願いしたいと二人から頼まれた次第なのだ。 すなわち、印象派がかって試みた宣言の主旨に関係する一文、いいかえると、印象派画家の重要性を説き、世人を驚かせている彼らの活動の華々しさを伝える一文を君に書いてもらい、同封した連名の手紙を添えて「ヴォルテエル」紙上に発表してもらいたいというのである」
いつものように 「君に採って迷惑なら遠慮なく断ってくれと」いいながら。

この連名の手紙はルノアールとモネエによるものです。
「美術局長官閣下。陳者このたび、印象派画家の名をおいてよばるるところの小生等二名の画家は、ここに名を連ねて、明年バレエ・デ・シャンリゼエにおいて然るべき条件の下に行わるべき印象派展覧会の開催をご許可あいなりたく、つつしんで懇願奉る次第に御座候。  草々頓首

         オーギュスト・ルノアール
         クロード・モネエ     拝

(註)にありますが こういう連名の手紙を美術局長官に送っているんですね。
今では絵画の歴史には必ず出てくる印象派ですが 当時はこんな感じだったんですね。
そして今や有名人である小説家エミール・ゾラにも一言書いてもらおうというわけです。

ーゾラはこの依頼に対し、6月18日より22日に「ヴォルテエル」紙上に「サロン絵画にあらわれたナチュラリムス」と題するエッセーを連載して責をふさいだのであるが、その内容はほとんど印象派画家たちの希望にそうものではなかったー
と(註)にあります。


がんばったんですね 印象派の試みは「新しいこと」であり なかなか認められなかったという。 ひとりではなく こうして仲間たちといっしょに展覧会開催を懇願したのですね。
いまでもそうですか? 露骨にあたらしいことを認めないし 非難する当時の人たち。それにたいして仲間と立ち向おうとする画家たち。この情熱が時代をつくったのかもしれませんね。私が画集で出会った印象派の画家たち それぞれその画家ならではの絵だと思いましたし刺激も受けました。おたがいにライバルだったのでしょうが おたがいに助け合っていますね。それはほんの一例に過ぎないのでしょうか。

いまみなさんによんでいただいてる「ピカソとその周辺」にしても「セザンヌの手紙」にしても いろんな人が出てきます。なかなかおぼえられないですけれども 「セザンヌも青年期や中年期にはいろんな人と会おうとしています。そのことが「こうしてみんなしてつながって 一人が有名になったら まわりのみんなが光り出していますね」

 

《 2017.01.20 Fri  _  1ぺーじ 》