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木賃宿に雨が降る

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「木賃宿に雨が降る」 高木護 未来社 1980

さよなら

  さよならは
  別れのために ただ一度

 さよなら
 わたしはこのことばを容易に使い過ぎてきたようである。だからといって、何にさよならをいってきたのかと思ってみても、はなはだ漠然としている。
 たくさんのさまざまなものに、さよならをいってきたようでもあり、たった一つのものにも、ろくすっぽ行っていないようにも思われる。
 ちょっと思ってみただけでも、あれらにわたしはさよならをいったであろうか。
  少年時代
  風景
  小学校
  先生や友達
  戦争
  青春
  片思い(または初恋)
  敗戦
  南の国々
  病気
  山小屋
  青年時代
  恋人たち
  いくつかの職
  ふるさと
  親身
  ゆめ
 並べたものはどれもわたしの過去たちといえるが、そのおりおりにさよならをしてきているはずなのに、どんな別れをつげたのか、とんと覚えていない。
 しかしながら、と弁解してみる。
 わたしは小学校だけでも、八回も転校している。
 学歴はそれだけ。
 十四歳から、働きはじめた。
 青春らしきものは戦争に押し潰されてしまった。
 敗戦。
 抑留生活一年半のあと、リオ群島レンパン島から、復員。
 十七歳だった。
 両親が死んでいた。
 病気。
 家出。
 放浪、病気、放浪のくり返し。
 ちゃんとした職にありつけなかった。
 生きているのがやっとだった。
 ーなどと。
 いくらそんなことをいってみたところで、弁解はその場逃れのいいわけでしかあるまい。今のいまも、時は刻々と過ぎて行く。そして阿呆なことだが、それらの時はふたたび返ってこないのだ。
 <人生足別離>
 千武陸の詩の末尾のところを「サヨナラダケガ人生ダ」と訳した人もいるが、人生とはげにそのようなものだろうか。
 ーさよなら
 とつぶやいてみる。さよならは、別れということばかりではないだろう。さよならは出発でもあろう。さよならをするのはまた逢いましょう、のためにでもあろう。
 とは思ってみるが、さよならはやっぱりさよならだけのように思われてくる。それならどんなさよならにしても、わたしはこれからいうことのできるものだけでも、大事にしてしみじみといってやろう。
 ーはい、さよなら
 と。
《 2016.10.10 Mon  _   》