ものがたりの余白 エンデが最後に話したこと ミヒャエル・エンデ
1 書くということ
エンデ 子どもたちはどのようなゲームの規則をも受け入れますが、その規則のなかで
首尾一貫していなくてはならない。
たとえば、子どもたちが手紙でよくたずねてきたことで、(トゥー・トゥーという名の)
あの「見かけ巨人」(『ジム・ボタンの機関車大旅行』)は、本当はどうなっているのか、という問いがありました。つまり、「みかけ巨人」が去ってゆくと、だんだんと大きくなってゆく、大きく見える。ところが、ジムが去ってゆくと、だんだん小さくなってゆく、そう見えるわけです。それじゃ、ここで「見かけ巨人」がジムと手をつないで、二人して去ってゆけばどうなるのか?そう、腕はどんどん長くなるのです。
それに、もちろん、大勢の子どもたちにとっての大問題といえば、
「モリーの父親は一体だれか?」
ということです。大人の読者のなかには、あの機関車(エマ)は、やっぱり竜のだれかと何か関係をもっていたのですかね?と問いあわせてきた人も何人かありました。わたしは返事を書き、いや、機関車はサボテンのように、若枝を出して増殖するんです、と伝えました。
(『ジム・ボタン』の)全体のコンセプトでは、わたしはこう自分に言ったのです。これはみんな、子どもたちが、自分たちの部屋で遊べる、遊びのシーンなんだって。つまり、機関車エマで海を渡るとすれば、ダンボール箱かなんかにすわって、絨毯の上をすべってみたりする。そして、わたしは、これが、この本が子どもたちから愛される、本当の理由だと思っています。みんな遊びのシーンだからです。みんな遊ぶことができる。そして子どもたちは実際に遊ぶのです。
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「子どもたちはどのようなゲームの規則をも受け入れますが、その規則のなかでは首尾一貫していなくてはならない。」
なるほど。どんなあいまいなことでも きいてきますよね。おとなはもう不思議がったり追求したりすることを しなくなってるんですかね。そして物語の中でも もうじっさいのできごとらしく いっしょになって動くんですね。
そんな姿を何度も見ましたよ。
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さてNEKO美術館では 「こども」です。