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蓮以子 80歳

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「蓮以子 80歳」 北林谷栄 新樹社 1993

 私の小学校も、そうなように御真影というものが置かれ、元旦とか式日とかには校長が、それの掲げてある垂れ幕の前で教育勅語を読み上げた。生徒どもは首を垂れさせられているので鼻が垂れてきて、それの始末に弱ったものであるが、校長のほうはモーニングの足がおそれおおさにふるえている。あるときは声までふるえている。こんなとき、どうも冷静になってしまい、しっくりと、のっていけないのが私の性分で、このカンゲキできぬ理由はどうしたわけかなぁ、とおかっぱの内側で考えている。日の丸も大楠公も何故だか私の心をゆさぶらず、感じやすい泣き虫であるはずの胸がなぜだかケロリとして、どうもピンとこない。
 あの名だたる軍国主義教育も歯が立たなかったのは、あるいはおばあちゃんのおかげだったのかもしれぬと思う。現在民主主義運動の前衛である人が、戦時中には特攻兵だったりした話をきくと、私はおばあちゃんのことを考える。決して自分が身構えたのではないにもかかわらず、なぜあの大正八年から昭和のはじめにかけての、つよい軍国主義教育が一度も、何らの同感も影響も私にあたえずに済んだのだろう。不思議なことのように思う。
 とにかく、私は、いま、こうして、弱気のような、落ちつきはらったような、おっちょこちょいのような、妙なぐあいで、生きている。こどものときとあんまり変らず、ただ、シワが寄っただけで。

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「決して自分が身構えたのではないにもかかかわらず、なぜあの大正八年から昭和のはじめにかけての、つよい軍国主義教育が一度も、何らの同感も影響も私にあたえずに済んだのだろう。不思議なことのように思う」
そんなふうであったのを考える時 おばあちゃんのことを考える。と彼女は言っている。
それで すっかり忘れている「自画像」のはじめの所を読んでみた。そのおばあちゃんのことを探して。
祖母は最初の結婚では渡来中であった西洋医ヘボンの門弟である尾台某に嫁した。この蘭学医の夫とは早く死別しているが この男性は彼女にとって素敵な男性であったに違いない。 次に嫁がされたのは立身出世と、蟻のような動物的勤勉と拝金を志とする夫で そこでは「自分のほんとうにいいと思う人といっしょになりなさいという 人の言うことに惑わされてはならないというようなこと 人としての倫理観を重んじるということ」をこの祖母に小さなときからおしえられたということだろうか。

私はこの本を長く読めるとは思っていなかった。だからちょっと読めそうな「自画像」というところからはじめていたが さかのぼっているうちに「その頃の銀座は....」「憧れの少女雑誌」「好きな本」という項目が「自画像」の手前にあることにはじめて気がついた。さてどうしよう

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NEKO美術館です。はてこの鳥は「レモンしぼり鳥」というか しかしレモンをしぼるなどという仕事は一度も持ち主にいただけぬまま アートの世界に追いやられた。
くちばしの長い わけのわからぬところが なんともいいと ご主人は思うらしい。 
《 2016.09.14 Wed  _  1ぺーじ 》