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蓮以子 80歳

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蓮以子80歳 北林谷栄 1993 新樹社

自画像

 大正十二年の関東大震災のあとで、私は、もうひとつの、今まで知らなかった何ものかが自分の身のうちで引き裂け、生まれたのを感じた。それが、はからずも今日の自分の俳優としてのあり方を規定する、最初のショックだったといえると思う。気弱くて、抜け作だった私が、ともかく仕事の世界で戦っていく目標と持続力を得たのは、この十一歳の脳裏に焼きついた一印象に端を発しているともいえる。
 この九月一日の大地震で、家は焼き払われ、火に追われ、地獄図のような人波にもまれながら、私たち一家は逃げ回り、命だけはやっと助かった。それから、野宿をし、配給の玄米を食べ、幾日かの間は原始人のように暮らした。
 この全市的な大混乱のなかで、在日朝鮮人が井戸や川に毒を投げ入れている、とか、大挙していま、どこそこまで攻め寄せてきた、とかいう報道を在郷軍人などが、ボール紙のメガホンでふれ回って歩いた。彼ら在郷軍人や自警団のなかには、つねづね出入りのさかな屋などの顔もまじっていたが、打って変わって殺気だっていばり散らしていた。ゲートル、竹ヤリに身をかためた彼らは詰め所々々を査問所のようなていにしていて、通りかかる者たちを威丈高に不審尋問したばかりでなく、何かのことばを言わせて、たしかに日本人であるかどうか訛をたしかめたりしたという。
 私は一つの死骸が、突っ伏せになっているのを遠くのほうから一度だけ見た。朝鮮人なのだ、と人に教わった。それは焼きつくように、私の心に残っている。見たくなかった、と言っても、そこにそういう事実がある以上、見た、見ない、は紙一重の差でしかない。
 十一歳の私には、当時の政治事情など全く知らない白紙の状態ではあったが、ただ、子供の本能的なカンで、この付和雷同的な野蛮さ、不当さに憎悪を持った。強く憎悪を持った。これが、生まれてはじめて感じた対社会的な憤りだった。いまでも私は政治的なことはよくわからないけれども、しかし、子どものときのこの怒りは、直感的ではあるが正しかったということだけは判る。つまりさかなが釣り師のエサと、水のなかの食べ物とを頭脳によってでなく見わけるように、私も子ども時代をどうやらそうして過ごしたらしい。

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大正十二年(1923) 九月一日 関東大震災がおこったんですね。
この全市的な大混乱の中で在日朝鮮人が井戸や川に毒を投げ入れているとか大挙してせめてきているなどの報道が在郷軍人や自警団がふれまわり 多くの朝鮮人が殺されたんですね。彼女は 付和雷同的な日本人の野蛮さ、不当さに憎悪を持ったと。
それだけ日本は中国や朝鮮とはうまくいっていなかった。
大地震でパニックになった人たちは 恐れていた。国内も在郷軍人や自警団もそして被災した人々も みんなして 在日の朝鮮人を疑った。ひごろから戦争状態に入ってたりすると ロシアに攻め込まれた満州での日本人のように 逃げ惑わなければならない。
いまでも日本は地震やそれに依る津波に襲われたりして あらためて災害の多い国だと思います。関東大震災だけではなく そのころでも日本のいろんな地点で震災が起きています。なんかちゃんとしたことを私も言いたいのだけど 言えずにいます。
蓮以子は一人のうつ伏せになって死んでいる朝鮮人をみて 社会的な憤りを母国におぼえています。この子どもは見てなにかを感じていたのですね。

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さてNEKO美術館ですが これはまた平和な子供の絵ですね。
わたしの父母たちの時代に戦争があって 私たちの時代では戦いにいくことはありませんでした。できれば なかよく 平凡でもいいから といいかけて この地球上でおきているいろいろなできごとには 恐れることがいっぱいあるんだと思います。
小さな子供たちは大人に守られて 安心して こういう楽しい絵を描くのでしょう?
《 2016.09.13 Tue  _  1ぺーじ 》