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シューマン

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「音楽と文化」河上徹太郎 創元社昭和13年

セザール・フランクがおわって こんどは「シューマン」です。クララ・シューマンが奥さんです。ローズマリーブラウンの「詩的で超常的な調べ」にはシューマンとクララの姿がのっています。音楽家辞書みたいにして開いてみます。すぐ忘れてしまうからです。

「シューマン」

 ロベルト・シューマンはシューベルトと並んで19世紀前半のドイツ浪漫派の中堅を成す音楽家である。のみならず、当時あらゆる芸術界に支配した浪漫派精神を一身に体現した最も典型的な詩人である。彼はシューベルトとともに、有り余る情熱に身を焼いた。ただしシューベルトの奔放に比べて一層繊細な感情を持ち、しかもシューベルトにない均衡を得た知性を備えていた。恐らく浪漫派音楽は形式の上ではシューマンなくしては真の完成を見ることはできなかったであろう。すなわちベートーヴェンの建設とブラームスの大成のあいだに架する橋渡しとしては、シューベルトの天性の素朴さよりもシューマンの構成された展開の方がはるかに重要な存在であったことは、今から見れば論を俟たない(またない)ことに思えるのである。これを例えば、少し一面的な比喩だけれどもその素質からいって、シューベルトがゲエテ的ならシューマンはシルレル的な浪漫家であった。すなわちシューベルトが人間として生まれた浪漫家であったに対し、シューマンは精神の上で築き上げられた浪漫家であった。従って出来上がったものとして見るとき、シューマンのほうがより形式的に完成されていることは当然である。

***

シューマンとシューベルトのことをこういう風に書いてありますね。
「シューベルトがゲエテ的ならシューマンはシルレル的な浪漫家であった」
「すなわちベートーヴェンの建設とブラームスの大成のあいだを架する橋渡しとしては、
シューベルトの天性の素朴さよりシューマンの構成された展開の方がはるかに重要な存在であったことは、今からみれば論を俟たない」

こういうのを読んでみますと シューマンのほうがちょっとレベルが高いと言いたげですね。
「シューベルトは若いとき友だちのあいだをふらふらしてたからなぁ。顔もよかったみたいだし しかしこのふらふらが軽すぎたのかなぁ」
いえねこれは 私の独り言です すんません。
しかしシルレル的 どんなやろ。ゲエテ的も古典文学や詩のことをからきし知らないというのも悲しいですねぇ

そうそう私の作品も見てください。
これはね ずっとまえ 編んで編んで カーテンを作ろうと思ったものです。
ところが途中で変更(よくある話なんです)。
存在としましてはけっこういいのです。正確に編めなかったところなど気に入っています。海辺の網のようになんかをくっつけてみたり。いろんなことをしてみました。

シューベルト 友達の家を渡り歩き 歌いながら歩く そんな人だったんですよね。でも若い仲間たちも一定の年になるとそう遊んでばかり入られなかった? そういうふうに人生を正確に編めなかった人(ちょっとこの編み物のようにーここで共通点)
若くして死んでしまって。ふむ 「きりぎりすのシューベルト」なんてね。
でもクララ・シューマンみたいなしっかりした奥さんがいなかったというのも シューベルトらしくていいやん。そうそう これはシューマンの話でした。

さいならさいなら

《 2016.08.14 Sun  _  1ぺーじ 》