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カンディンスキー

カンディンスキー 点・線・面 1959 美術出版社 つづきです。

芸術と時代  芸術史と<文化史>(これには、非文化に関する章も含まれる)との関連の基礎となるのは、公式的に云えば、次の三つの場合がある。
1 芸術が時代に服するーつまり 
a) 時代が強力で、且つ充実した内容を有している、したがって、同様に力強い充実した芸術が、ごく自然に、時代と相提携してゆく、か、もしくは
b) 時代は強力であるが、内容がバラバラなので、ひよわな芸術は、崩壊の憂き目を見る。
2 芸術が、種々の理由から時代に対立し、時代とは反対の可能性を表現する。
3 芸術は、時代が押し込めようとする制限を乗り越え、未来の内容を指示する。


つぎに「若干の例」としてアメリカの一流の<エキセントリック>な舞台構成は、第2原理の適例であると書いてあります。つまり純粋芸術にたいする今日の反動と攻撃で第一原理のbにあてはまるというわけです。
抽象芸術は、現代的雰囲気の圧迫から解放されている、それゆえにこれは、第三の原理に従うもの。とあります。


こうした方法で、一見定義し難いもの、でなければ、全くナンセンスなものと思える様々な現象が、説明できる。因に、水平線と垂直線のみを使用することは、われわれには、ややもすれば定義し難いものと思われるし、また、ダダイズムは、ナンセンスのようにもみえる。これら二つの現象が、ほとんど同時に世に現れ、しかも相互に反発して絶対に相容れぬ関係にあることは、意外な感すらあたえる。
水平・垂直二線以外の一切の構成的基礎の拒否、それは、いわゆる<純粋>芸術にたいする、死の宣告意味する。そして、この芸術を死から救い出すことができるのは、<実用的目的>のみだ。つまり内面的には崩壊しながらも外面的には依然として強力である、時代が、芸術を自己の目的のため屈服させ、芸術の独立性を否定するー第一原理のb)項のケース。ダダイズムは、時代の内面的崩壊を映し出そうとするが、同時にそれにより、当然、その芸術的基盤をも失ってしまう。しかもダダイズムは、自己の基礎によってこれを補うことはできないーこれもまた、第一原理のb)項に入るケース。


書き写してみますと まったくわからないわけじゃなかったのですが 新たにそれを説明する事はできませんでした。
ただ b) 時代は強力であるが、内容がバラバラなので、ひよわな芸術は、崩壊の憂き目を見る。

この言葉が印象的でした。「内容がバラバラ」?
それは個人が 集団のなかで同じ考えを推し進めていく ということがなくなったということでしょうか? 表現上で大きな発見をした芸術家に 多くの芸術家がついていくというような? 

「ダダイズムは、時代の内面的崩壊を映し出そうとするが、同時にそれにより、当然、その芸術的基盤をも失ってしまう」
これはどういうことなんでしょう?
「しかもダダイズムは、自己の基礎によってこれを補う事はできない」?

そうそうきのうそのダダイズムのことを芸術新潮で見ていたんです。探して来なくちゃ。

「20世紀初頭の前衛のリーダーだった詩人アポリネールを讃えるキリコの絵(ギョーム・アポリネールの予兆的肖像)がある。シュルレアリズムという言葉も、じつはアポリネールの造語だったのを、ブルトンたちが意味付けを変えて借用した。」芸術新潮2011

「強度の現実」を希求する。根幹的な方法論の一つとしてブルトンやスーポーがシュルレアリズム宣言よりずっと以前、1919年頃から実践していた、エクリチュール・オートマティスム(自動記述)があります。構想を立てず、連想のおもむくままに流れ出す言葉を綴って行く。しかもかなりの速度でそれをやる。そうすることで理性に統御されない無意識の思考を、つまり人間の内部にある「強度の現実」を書き取ろうとしたのです。

あれっ!これはいまやってるミヒャエル・エンデのところで書いてある事じゃないですか。

ダダはブルトンをはじめほとんどが元ダダイスト。「ダダ宣言1918」のなかにある「ダダはなにも意味しない」という有名な一節が示すように、否定の瞬発力によって爆発的に『生』をきらめかす所にダダの真骨頂がありました。
それをさらに持続可能な運動に転換し、「生を変える」ことを目指したのがシュルレアリスムでした。

そうなんですか。
しかしなんの話でしたっけ?


《 2016.07.25 Mon  _  1ぺーじ 》