ミヒャエル・エンデ 「ものがたりの余白」続き
ー聖なる「遊び」、というと、つまり神の「遊び」ということですか?
エンデ ええ、奇妙でしょう。
タロット・カードには二十二枚の絵札がありますね。ちなみに、この絵札は、これも奇妙な事に、ヘブライ語の二十二の文字に対応しているのですが。その1枚目のカード、最大であり、もっとも重要なカードがパガードで、つまり、ナンバー・ワンの札ですね。だから、この札は、実は神を表しているとも言えなくもない。あるいは、こうも言えます。この札は、ヘブライ語で「すべて」を意味する文字にあたると。それが奇術師、魔術師なんです。奇妙ですね!
札に描かれているのは、ゲーム用のテーブルを前にした男です。そのテーブルの上には硬貨が一枚、剣が一振り、杯がひとつと杖が一本置かれている。つまり、ちょうど本当の奇術師のように、いろいろな道具が前に並べられているのです。あきらかに、なにか遊んでいるようです。
こういうと、ほとんど神を冒涜するように聞こえますが、神も遊んでいるのかもしれませんね。ひょっとしたら、人間の歴史とは一種の大きな「遊び」で、わたしたちは、知らぬうちに、その遊びの相手をしているのかもしれない。そして、わたしたちが遊びの相手だとまだ理解していないだけなのかも。まあ、これはひとつの考えとしてここで暗示するだけですが。
面白い本がありましてね。二、三年まえに見つけたのですが、『かぎりある遊びとかぎりない遊び』という題で、著者はアメリカ人です。今度機会があれば、お貸ししましょう。とてもいい本です。すくなくとも、わたしが理解したところでは、この本はまさに、わたしが遊びについて言わんとすることを、語っています。人生の原理としての遊びです。この原理は、「死」すらも、この大きな「遊び」のなかに含ませるのですから。
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ー人生の原理としての遊びです。この原理は、「死」すらも、この大きな「遊び」のなかに含ませるのですから。ー
いまごろは いただいたキュウリがおやつがわりです。ありがとうございます。
さて「聖なる遊び」とは、つまり神の「遊び」ということですか?と田村さんはエンデに聞いています。よくいわれるように われわれはチェスの駒のようなもんなんですか?
こうなると 自分がPLAYING ROOM と称してやっている事などは 神の興味をそそる「遊び」かどうかわかりませんね。「おい 見てみな アリが 葉っぱを運んでるぞ」ぐらいなもので...。
そうそう 鈴木秀子さんの本「愛と癒しの366日」海竜社 平成8年のなかで
7月21日のところに
ー 私たちは、子供がかくれんぼをしているときの真剣さによく驚かされます。
狭い家で、かくれるところはいつも同じなのに、鬼が来るまで部屋の一隅に身をひそめ、息をこらして、目を輝かせています。
戦国の武勇になりきる男の子も、鬼に見つかるまいとする女の子も、まさに「あそび」の中に生きているのです。幼ければ幼いほど、子供にとってあそびは仕事となります。
幼い子供にとっては、あそびがすべての暮らしであり、あそびこそ、暮らしの母音でした。それなのに、私たちは、年齢とともに、仕事とあそびを区別し、一人前の大人になったしるしとして、仕事とあそびを、相反する性質のものに育て上げてしまうのです。
大人にとっても、「あそびは暮らしの母音」と言えるのは、どういう意味なのか考えてみたいものです。ー
こういうときに こういう話が出て来るのは面白いですね。
「あそびをせんとや生まれける」とか何とかいったのは平家のええっと。平清盛。
「あそび」は産まれると生きると死ぬ そんなことまでかかわるようなもんなんですね。仕事だってこのあそびのなかにはいるとしたら ふーん。
「あそんでるねん」なんていってるばあいじゃないですね。
上の写真は 自作のおじさん人形とガラス玉と絵の具皿 わたしのPLAYING ROOM です。生きているときの私のあそびです(笑)
さいならさいなら