who am ?I

PAGE TOP

  • 07
  • 11

ミヒャエル・エンデ

「ものがたりの余白」エンデが最後に話したこと 田村都志夫(聞き手)

遊びについて

 ー舟が難破すれば、人はともかく悲惨な状態ですが、どこからさらに力が出て来るのでしょうか?

エンデ 「遊び」です。「遊戯」がわたしにとって、いかに大切かを、いつも強調してきましたし、これからも飽くことなく強調するつもりです。なぜなら、挫けることなくしっかりとしているのは遊戯だけだからです。
(ナチスの強制収容所においてさえ、そうでした。一人の人形つかいと出会ったことがあるんです。かれはロシア人で、強制収容所に入れられたことがあり、そこでパン(やジャガイモ)の残りで小さな指人形を作り、それで子どもたちと遊びました。その人形劇を、かれはわたしたちに演じてみせてくれたのです。そこで、かって子どもたちと一緒に遊んだことを、かれは全部(見せてくれました)。
 それは(ほとんど)何も使わないのに、偉大な詩的物語、本当に偉大なポエジーでした。そして、そこには子どもたちを、いや大人たちにさえ助けになったなにかがあったことを、わたしは理解したのです。それはひとつの遊びです。メルヒェン遊びといえるかもしれない。しかし、その「遊戯」はかれ自身にも助けになり、また、なんらかのかたちで、みんなが自らの尊厳をもう一度見つけるのに役立ったのです。
 ですから、わたしは、自分の仕事へのアプローチを「遊び」と見ています。だから、わたしは子どもの遊びに近づきました。もっともこれは後のことです。それから始めたわけではありません。わたしはまず長いトンネルを掘らねばならず、やっと向こう側に出て、遊戯が、いま話した意味で本来的なことだと、理解したのです。遊びのかたちにおいてだけ、わたしは生産的になれるのだと(思いました)。
 人生の生真面目さをわたしの仕事に取り込まねばならないと思ったら、なにももう思いつかない。そうすると、もう先へ進む意欲がなくなってしまうのです。

***

「遊び」「遊戯」エンデはそれらはとても自分が生産的になれると云っていますね。
わたしは こういうことをとても真面目に云っているエンデに 「やっぱり真面目に遊んでるねん」はあることはあるんやと思いました(笑)。子どもも真面目に遊んでいますし
大人もややもすれば「子どもじみたことを」と思われながら ちょっとこそこそと遊んでいるのではないかと。
「Playing room」大人のわたしが真面目に子どもとやるにはどうしたらいいのかな そうまじめに考えることがあります。そこで孫相手にやってみるのです。何でも経験ですからね(笑)。
ところが わたしの姿勢が まずよくないんです。おしつけがましいのかもしれません。
子どもは 自分で思いついて真面目に遊んでいるのです。他の子が面白そうに夢中になってると ぜがひでもそれをわがものにしたいと 飛び込んでもいきますよね。おもしろいようにその子をみんなして追っかけ回します。よっぽどよくみえるのでしょう。
でも わたしという大人は 子どもを追っかけ回します(笑)。
ロシア人の人形遣だった彼は 強制収容所では パンのかけらとジャガイモの皮だけで こどもたちに 遊ぶことで 大人にも子どもにも助けになるなにかをしたんですね。「偉大な詩的物語」
わたしは 「おもちゃのめしつかいです」 多すぎるからね。
でもわたしがわたしと遊ぶことは 真面目にやっていますよ。「一人遊び」って奴ですよ(笑)そしてそれがわたしを助けてるんです。ほんとですよー
《 2016.07.11 Mon  _  1ぺーじ 》