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ゴーギャン

コレクション 瀧口修造 1991 みすず書房

ゴーギャン

 ゴーギャンがはじめてタヒティに出かけたのは1891年で、約二年間滞在して、1893年にパリに舞い戻ってくる。
無一文でパリに辿りついたかれは、思いがけなく叔父の遺産が転げこんで一息つくが、その年の冬にデュラン・リュエルで開いた個展は散々の悪評で、一枚も売れなかった。
しかしドガやルソーやマラルメなどから激励の賛辞を受けたし、ボナールやヴュイヤールのどのナビ派に大きな影響をあたえたが、一般的には無慚な悪評をこうむった。 

かれはアトリエをタヒティ土産で飾り付け、ジャヴァの混血女アンナと同棲し、おおいに異国趣味を盛りあげて絵を売ろうとしたらしいが、結局この女にはアトリエのめぼしいものを持ち逃げされたのが落ちであった。おまけにこのアンナと猿を連れて街を散歩しているところをからかわれたことから、水兵と大喧嘩になり踝(くるぶし)を砕かれた。この痛みは最後まで祟った。

1894年には長く別れていた妻メットをコペンハーゲンに訪ねるが、妻のつめたい頑な心はついに解けず、さいごの絆は絶たれてしまった。(しかし彼は1897年まで妻に手紙を書いている)。こうしてふたたびタヒティ行きを決意したかれはホテル・ドゥルオで絵の売立をして数千フランを懐ろにし、ヨーロッパに永遠の別れを告げる。

しかしパリでの最後の夜、影のように寄り添ってきた街の女から有毒の接吻をうけた。これがヨーロッパの餞別であった。

***
ゴーギャンの作品を認めるドガやルソーやマラルメなどから激励の賛辞をうけ、ボナールやヴイヤールなどのナビ派に大きな影響を与えているんですが 一般的には悪評だったんですね。
ここではゴーギャンがタヒティでの絵やお土産物などをパリに持ち帰り異国趣味を盛り上げて絵を売ろうとします。 ジャバの混血女アンナと同棲し 猿を連れて散歩していたところ水兵と大喧嘩して 踝を砕かれるというけがをします。そしてアンナにはアトリエのめぼしいものを持ち逃げされます。
ここのところで「踵」という漢字がなかなか読めませんでした。ゴーギャンの1889年の自画像を見ていると 鼻の角度がとても特徴があります。 きっとこの字は鼻に関係するなとふんでいたんですが 足偏ですからね 足に関わりのある場所じゃなければ。
漢字には よく「ふりがな」お願いしますよ とつぶやいています はい。

このときは ゴーギャンの絵のよさをわかってもらうには いたらなかったのですね。妻にも許してもらえず そういったところで ふたたびタヒティ行きとなるわけですね。おまけにパリを立つ最後の夜 女から梅毒でしょうか有毒の接吻を受けたとありますね。

ゴーギャンと同じ時代の画家たちは悲惨な生活の人が多いですね。
わたしは若い頃 ゴッホやゴーギャン モジリアニ スーティンなどの画集を見ては こんなに悲惨じゃ こまるやないの とよく思いました。しかし見てる限りではドラマチックでそれはそれで その気分にひたったものですが。

このゴーギャンの家族にしても かれが仕事さえやめなければと歎いたことだと思います。しかし このつぎつぎとゴーギャンをみまう悲劇はどうです?

さいならさいなら




《 2016.05.25 Wed  _  1ぺーじ 》