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シューベルト

『音楽と文化』河上徹太郎著 創元社 昭和13年

シューベルト

 シューベルトが19歳の時のことである。
 十六歳の時に声が変わったために合唱隊にいられなくなり、同時にコンヴィクトを去った。彼にはもはや音楽以外の何物もなかった。それにもかかわらず、彼の父はいまだ音楽家にする気はなかった。コンヴィクトを出ると教育学を学ばせ、その翌年から自家において補助教師の役を与えた。この間の三年間は彼には堪え難いものであった。
「あなたの弟はとても浮かぶ瀬のない不幸な学校用の駄馬みたいなようなものです。周囲の人々はろくなことは何一つしません。そして物の分からぬ人たちと、馬鹿坊主どもに何をされてもただわけもなく服従していなければなりません」と兄に書き送っている。
 ただしこの間にカレの音楽的活動はすでに本道に入っていた。この三年間にゲーテの詩による「紡車のグレチヘン」「魔王」を初め百五十に近い歌曲、ミサ曲、ピアノ曲、室内楽の他交響曲も作曲されていた。
 十九歳の時に彼は心から嫌っていた教師生活から解放された。友人のショーベルが自家で彼を生活させるようにしたからである。彼は初めて憧れていた自由を得た。同時に彼の放浪生活が始まったのである。これ以後彼は生涯定住の場所を持たなかった。定職も持たなかった。彼が望んだ時は断られ、先方から提供されようとした時は彼自身から断った。二度ばかりベートーヴェンのパトロンであったエステルハイツ伯爵に招かれてその別荘で夏を送ったことがあるばかりである。それでもちろん定収入がありようもなかった。まれに行われた演奏会の収入と、楽譜おもに歌曲の出版が彼の収入の全部であった。ほとんど友人のところを泊り歩いていた彼にとっては、それでも事は足りたものであるらしい。モツアルトやベートーヴェンが多少とも当時の貴族社会の生活に入り、その階級の教養と物質にすがって生計の助けとしていたことを思えば、シューベルトには生まれながらに放浪を愛する性格があったものであろうか。彼の周囲には彼と彼の音楽に魅せられていた一つの仲間、「シューべルト組」があった。

***

「シューベルト組」は放浪を愛する彼を助けていたんですね。
シューベルトがこんな自由な人だとは思わなかった。でも、Rosemary Brown(前に話しましたね)によると音楽家の中では本当に愛すべき人だったようですね。ハンサムだし。
こんな事が書いてありますー「彼のまなざしはとても柔らかく、まるで目から友愛の気持ちを放っているかのようです。彼はこの上なく謙虚で、控え目で、物静かです。そしてある意味で陽気でもあります。彼のユーモアのセンスは少々古風ですが。彼は冗談を言う訳ではありませんが、愉快な気分をみなぎらせており、明らかに遊び心をもっています。きっと生前もそうだったのでしょう。この朗らかな性格は、この世から解放されたことによって得られたものではないと言う確信が、私にはあるのです。」「誰もが彼を好きになると思います」「その謙虚さは常に変わりません」「全然気分屋ではありません」
(詩的で超常的な調べ rosemary Brown 国書刊行会2014)

お父さんは息子を音楽家にさせたくなかったようですね。教師にさせたかった。19歳の時にやっと教師生活から解放され 友だちの家で生活したり放浪の旅に出たりするわけですね。お父さんとこのことで喧嘩などしなかったのかしら。

もちろん音楽の道を歩みながら。百五十に近い歌曲、ミサ曲、ピアノ曲、室内楽、交響曲を作曲していたんですね。

さいならさいなら
《 2016.02.21 Sun  _  1ぺーじ 》