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ピカソ

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「ピカソ」世界の美術 河出書房 1963の続きです。上の作品は<娘の頭部>1907 世界の美術 ピカソ 河出書房です。

ピカソ芸術の出発とその背景 植村鷹千代

 1902年に短期間ピカソはスペインに帰っているが、故国の環境の悲惨さや自然の暗さが、ピカソに一つの虚脱を経験させたのであろう。あるいは自己の再発見であったかもしれない。パリ時代から始まった、<青の時代>と呼ばれる暗くて二ヒリスティックな雰囲気をもつ作品群が制作されている。この時代の代表作は『生活』(1903年、バルセルナ)である。
 1904年の春、ピカソは<青の時代>の作品をもって再びパリに、今度は永住する決心で帰ってきた。モンマルトルの「パトオ・ラヴォアール」(洗濯船の意)という仇名のあばら屋の一隅に住みついたが、彼はここに1909年までいた。
このころのピカソの生活を伝えているのがフエルナンド・オリヴィエの著『ピカソとその友だち』であるが、アルフレッド・パールの『ピカソ芸術の50年』によると、この洗濯船は才能の箱舟であって、マックス・ジャコブ、アポリネール、サルモンらがサークルを形成していて、その刺戟を通して、パリは、ピカソをすっかり魅了してしまったようである。ピカソはボヘミア式の貧乏生活をしながら、議論をしたり、ピストルをもって外出したりしていたらしいが、もっとも繁く足を運んだのはサーカスであった。そしてスペインの暗さから完全に虚脱してしまう。<桃色の時代>あるいは<アルルカンの時代>と呼ばれる一連の明るくて軽快なフランス的な作品群をもつ時代が生まれる。この時代を集約する代表作は『旅芸人の家族』(1905年作)である。
 このときピカソは25歳であり、まだピカソ芸術の準備期であって、20世紀の美術史に革命を起こすピカソはまだ登場していない。だが、上述の期間の歩みだけをみても、ピカソという芸術家の性格上の特色は、かなり鮮明にうかがえると思う。この性格は生涯を通して発揮され、それが後述するような多角的な、カメレオンの仇名にふさわしい変貌を示すことになる。

***

パリはすっかりピカソを魅了したようである。

ここにフェルナンド・オリヴィエの『ピカソとその友達』(佐藤義詮訳では「ピカソとその周辺」となっていますね)が出てきます。なんか親しみをもって見ることが。
<青の時代>の作品です。故国スペインの環境の悲惨さと自然の暗さが あの「虚脱」を経験させたかもと植村さんは書いていますね。パリよりスペインが暗いと感じたんですかピカソは? スペインではまだそれ以前の巨匠に世間は注目していたってこと?
 パリは芸術家や詩人が寄り集まっていた刺激的な都会だったんですね。なにしろ若いピカソは刺戟が それも新しい刺戟が欲しかったんでしょうね。
この洗濯舟は才能の宝庫だったんですね。マックス・ジャコブ、アポリネール、サルモン等のサークルなど。
サーカスがボヘミヤ式の貧乏生活のなかで刺戟をうけたんですね。<アルルカンの時代><桃色の時代>でスペインの暗さからすっかり脱出したという。
刺戟をうけるたび 前から脱出し新しいところに入って行く。すごいわー まったく(笑) 作品『旅芸人の家族』ですね。このとき25歳。
この時代の画家って 今と比べて いやいやそういうことじゃないんですよね。音楽家でも クラシック音楽では若くてもモーツアルトやリストやベートーベンがウイーンという場所で出ている。パリがそれやったんですね。
一人すごい人が出てくるとみんなが活気づく。
まだ美術史に革命は起こしてませんね。しかし上の絵は革命を起こし始めてる またずれたわ

さいならさいなら
《 2016.02.21 Sun  _  1ぺーじ 》