who am ?I

PAGE TOP

  • 02
  • 17

瀧口修造

『コレクション』 瀧口修造著 みすず書房 1991の続きです。

 私も描く

 ところで私は墨インクのデッサンをくり返しているうちに、コップの水でそれをにじませることを覚えた。ブルー・ブラックのインクがまた返ってくる。ペンを拭う(ぬぐう)ためのスポンジが毛筆の代用をつとめる。私はいまもまだ毛筆を使ったことがない。スポンジは一種の補助手段にすぎない。しかしこのにじみとか水気は線に空間をあたえてやるために必要である。いや、その水つけのために生気を帯びたり、死んだりする紙の動きに興味をもちはじめるのである。突然、それはあらぬところからファントムのように立ちはだかり、また急にしおれてしまう。あるいは無気力な操人形(あやつりにんぎょう)が急に活気づいて何事かをしゃべりだす。私はこうした小さな出来事を小さな紙の上で矢つぎ早に起しながら、写生帳の紙をめくってゆかねばならない。乾くのを待って、つぎの操作を加えることがもどかしい。そのために吸取紙を使う。この喉のかわいた紙は動いている魂までも吸いこんでしまうが、一挙にすべてを定着する魅力的な役割をしてくれる。それでこの吸い取り紙のために私は罠をしかけておかねばならないだろう。ともかく、このようにして私は紙をめくりながら描いていくので、必然的にシリーズのような形をとる。一枚のタブローに向かうというよりも、日記のページを操るように事をはこんでいくのである。一ページのなかにも二つ、三つの、あるいは十以上のシリーズが現れることがある。それぞれ別のデッサンであるが、やはり連続し、関連がある。絵のコンポジションを無視しながらも、私は画家らしい所作に入っているのに気がついて苦笑する。書くと描くの限界が完全に混合してしまったようである。

***

「それから どうなるのだろう」筆を動かしながら 思うってこと 面白いだろうな。
 経過を楽しむ人。
「対象物を見て つかんだ後 筆を進めていく。よくある話。私は そうなっていく自分が なんだかつまらなかった。それより空想の方がひろがったり つながったりする楽しみが あった」これは 私のひとりごと。
瀧口さんの書くと描くの限界が混合する前の 所作が うらやましいほど生き生きしている。
「それからどうなるのだろう」 自分のこれからの絵の中には 探る物がないと思う。 他人がやっていることのなかで 感心する事の方が 今は多い。 他人という人は私のすでに描いてしまった絵やその他の表現を探ってくれる。これも面白い。私自身だってやってきた表現を探る。 つまり これからは 描くことはないのだ。
自分を振り返って行く中で そんなことを思った。
それは決してがっかりしたことではなかった。

瀧口さんの 自らを語るは その表現の豊かさに 率直(そっちょく)さに うれしくなってしまう。「書くと描くの限界が完全に混合してしまった」もあるかもしれないけれども その時に思いつくことが 相手をくすぐる(とでもいおうか)。この人には画家であるというはっきりとした思いなどなく 書く事が本職だから(?)この軽さは 新鮮。

突然、それはあらぬところからファントムのように立ちはだかり、また急にしおれてしまう。 

さいならさいなら



《 2016.02.17 Wed  _  1ぺーじ 》