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おたより

『現住所は空の下』高木護さんの「ミイラ坊さん」を打ってみて まだ考えは終わってないな なんです。66歳にもなったのだから ちょっとは落ち着いて 人間とは何か 自分とは何か 生とは死とは何か 人生とは世の中とは何か 考えてみなくてはね。

「言葉を感じる」のタイトルのファイルでは(ファイルに日記を入れたり 新聞記事を入れたりしてるんです)

そんなときに むかし20代の頃に職場で出合った もと牧師さんをしていたという男性がこういうことを ゆうてはったんです。このまえの「もうあきれた」のすぐそばにありました。

石ころ

人間が「人間」として愛されたり、重度寮の寮生たちが「重度」として受けとめられることを 私は人間性の否定だと考えています。
 石ころは石ころでしかありません。しかしその石ころでさえ 丸いのもあれば角ばった
のもあり、同じ角ばったものでも赤みを帯びたものもあり 白っぽいものもあるでしょう。つまりそれぞれにみんな名前があるといえるでしょう。
 人間は「人間」ですが それ以上に人間が一回性と独自性をもったかけがえのない「その人」であるということをもっと重要視すべきだと思います。
「その人」が「人間」という普遍概念の中で「その人間性」を消されてしまうとき「その人」はもはや人間性まで否定されてしまうことになるからです。

この方は「こども」「かり」「その人は」「石ころ」など 詩を書いてはりました。
20代のとき 私は この方が えらい人だと思いましたが 人間そんなえらい人がいるもんかなあと 疑っていました。でも今から考えると その人はえらい人です。
高木さんの本に出てくるミイラ坊さんも えらい人ですね。高木さんだって水木しげるさんだって やっぱり えらい人です。 えらいことを考える人とえらい人とは違う場合もありますね。それに小さくえらい人とか大きくえらい人 中くらいにえらい人もありそうです。「自分なんか」と思うのも66歳までに 小さくえらいところがあると思いたかったことの裏返しかもしれませんね。
多くのファイルの中で この方の文に出合えたということは これは何かの何かかもしれんと。まあ今日思ったことです。
「ねこでよろしいですか」のとなりに 「わたしでよろしいですか」
《 2016.02.05 Fri  _   》