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おたより

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T子さんとの思い出話を 電話ですることにします。長い間に彼女はとても目が悪くなったからです。いまライトハウスに行って 70代で勉強中です。

 T子さんと私たちで(夫婦)車に乗り込み、白馬に行くことにした。 家から1時間ほどかかる。 白い雪を想像していたT子さんが 途中車の窓から「あっ雪だ!」とよろこぶ。白馬という所は 私たちの住む所よりだいぶ北で 雪が多いところだけれども どうも今年は暖冬らしく 去年は今ごろ真っ白だったのに ずっとまえにつもったグレイのゆきのかたまりが断層のように 軒下や道端にあるだけ。
「軽井沢みたい」とT子さんがいう。 彼女は去年軽井沢に行ったらしい。夏の軽井沢はバーゲンの店が並び 若い子たちでいっぱいで ちっともムードがないという。静けさもないと。冬はスキー客で 若者のための店が並んでいて それもがっかりしたようにいう。
私たちは 軽井沢といえば みんなはよろこぶと思い込んでいる。

でホテルの客もまばらな喫茶室にはいる。ケーキとコーヒーでしゃべることにした。
「T子さん 原稿用紙を持ってきていたよ」
私は夫に云う。
「今 なにかいてるの?」と私は聞いた。
「書くというほどじゃないんだけどね お友達に誘われて文学カルチャーセンターみたいなところに 1ヶ月に2回行ってるの。そこの先生が朝日新聞の論説委員をなさった方で
いっときは天声人語も担当してらっしゃったという方なんです」彼女は云う。
「へえ いいじゃん」と私が云うと
「でも私みたいなちっとも書かない生徒ばかりでこまるのよね」彼女はそう言いながら下を向いた。
「中也の詩でも読もうと思って 持ってきたんだけど 詩なんてまったくわからないんですけどね」笑いながら云った。
夫は中原中也の詩が好きだ。
この詩人が子供を亡くしたときの詩なんか ほんとうに悲しみが伝わって来るようだというようなことを言った。
「動物園のライオンを見てはにゃーといい」そんな詩らしい。ちゃんとぜんぶ云えればなおいいんだけど 子供はおぼえたてのねこのなき声を 動物園のみんなにあてはめる それはうちの子も小さい時そんなかんじだったから よくわかる。
T子さんはチョコレートケーキをかじりながら少し生き生きとしてくる。
彼女があけた詩集の中原中也の詩はこうだった。
「春が来たって何になろ あの子が帰って来るじゃない 
おもえば今年の5月には おまえを抱いて動物園
象を見せてもにゃあといい
鳥を見せてもにゃあだった
最後に見せた鹿だけは
角によっぽど惹かれてか
なんともいわず 眺めてた
ほんにおまえもあの時は
この世の光のただ中に
立って眺めていたっけが」

「そういうカルチャーセンターでとりあげるような者って、どんなもんですのん」夫が聞く。
「そうですねえ、カントなんかも。カントなんて名前を聞くと なんとむずかしいと思うでしょ。ところがこの先生はそんなふうなことをふきとばして もっと身近なものとして 少しずつ教えてくださるんです。 それから 夏目漱石とか森鴎外だとか」彼女はたどたどしくしゃべる。

「そうそう中也はねブランコのゆれる様子を やゆよんやゆよんとかいってうまいこと表現してるんよね。あんなこと云われると もう ブランコのこと他の言葉出て来ないよねうまいよね」夫はカントのことを話しはじめていたのに また中也。
「詩なんて よくわからないんですけど これだったら私にもわかるってところがあるんです」彼女はくりかえしいった。
「鈴木翁じ」という人がけっこうこんなイメージを持ったマンガを書いてますよ。
彼女はメモをし始めた。

「へえ カント 文学だけじゃなくておもしろいですねえ」
夫は やっとカントにもどった。
「最近の文学では?」と彼女に夫が聞くと
「それがあまり。でもこのあいだ庄野じゅんぞうの桜の花見のことを書いた文がとてもよかったと 先生はいっておられたわ」
「あれですか ぼくもよかったなあと思いますよ。あの作家は家の中のちょっとしたできごとを本当にうまく書く人なんですよ。ぼくはいっとき クレイマークレイマーのとき この人の本を読んでは その書き方を勉強して 子ども達のことを本に書いたことがあるんですよ」夫は云った。

喫茶室を出ると 白く凍ったような雪と土の道が駐車場に続いている。
「あのブーツ こういうところがあると知ってたら はいてくればよかったのにね」と私は彼女に云った。2人はすべりそうになりながら歩いた。
「うん ほんとに」
彼女は笑って私の腕のなかに手をそっと入れて 私たちはうでをくんで車の方に行った。 そしてわが家にT子さんは 子ども達に人形やおかしをかかえて来た。
大きくなった子ども達を見て とても驚いていた。
「すごい ええっとええっと わかんない。大きくなってしまって。これじゃあこのおみやげはみんなの歳とあわないかも」彼女はそう言って笑った。
小学生や赤ん坊のこどもたちの時しか見ていなかったのだった。

T子さんはカレーを少し食べた。今日泊るホテルの夕ご飯の券を買っているからだった。私たちは彼女と山の中のホテルに向かう。
「お年寄りの方で 死ぬときがわかる人がいるのよ。男の人だけど」
彼女がポツンと云った。
「おれはもうだめかもしれん といってその日のうちになくなっちゃうとかね」
T子さんを送って行った山道は曲がりくねっていて 真っ暗になると きつねにだまされそうな道だった。

***

この話はずいぶん前の話です。もう子供らはみんな大人になり 結婚して子供もいる子らもいます。そして今 彼女は目がとてもわるくなりました。この思い出話を打ってから 彼女に電話で読んでやろうと思いましたが なんか 自信がなくなりました。わたしにはよくある話です。 


《 2015.12.26 Sat  _  おたより 》