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ドビュッシー

『音楽と文化』河上徹太郎著 創元社 昭和13年の続きです。

 クロード・アシル・ドビュッシーは1862年にパリ近郊のサン・ジェルマン・アン・レエで生まれた。彼はあまり音楽的な環境に恵まれず、父は彼を海軍軍人に育てようと欲していた。その少年時代に目覚めた音楽的素質も天才的早熟さではなくて、むしろ奇異な和声をピアノの上で搔き鳴らして自らうっとり聞き入っているといった調子のものであった。その後音楽学校へ入る機を得たが、ピアノでも決して優等生ではなく、むしろ手に負えぬ我儘な生徒であった。しかしやがて1884年にはカンタータ「蕩児(とうじ)」によってローマ賞を獲った。
 ローマ賞を獲った学生はローマに留学して更にその間に作品を書く義務がある。しかしドビュッシーはこの留学をあまり有り難がらず、イタリーならびに凡俗な学生等との生活を嫌悪した。とにかくその間に書いた留学作品は「春」と「選ばれた娘」の二つだったが、恒例の留学作品発表会ではともに演奏されなかった。
 その後機会を得てショッセ・ダンカンの有名なエドモン・ペリイの「リブレリイ・ド・ラアル・アンデパンダン」という書店を溜まりとする新進文人の仲間入りをするとともに
、ドビュッシーの生活は急に活気づいた。つまりそれまではまったく非芸術的な環境しか知らなかったので、彼のわがままな性格がなじまなかったのだ。ここに獲た彼の知己は、前述したマラルメのサロンの人たちで、つまりこの本屋の常連が19世紀末のフランス文化の花形だった訳だ。そういう文学的な影響の他に、音楽的には当時彼はシャブリエのだいたんな音楽に心を動かされ、エリック・サティを知り、とくに彼の一生を決定した「ボリス・ゴドノフ」の譜面に初めて接したのであった。

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ドビュッシーのお父さんは彼を海軍軍人にそだてようと思っていたのですね。
子どものころはそういう環境のもと音楽的才能もあまりみとめられなかったというわけですね。音楽学校にはいったもののわがままで手に負えぬ生徒であったと。
ローマ賞を獲った「蕩児」なんかそういう生徒のことを蕩児っていうんじゃないかなあ と思いながら それだったらいい作曲できるだろうなあと思ったり。エドモン・ペリイの「リブレリイ・ド・ラアル・アンデパンダン」というフランスの書店が芸術家たちのたまり場で そこで急に活気づいた訳なんですね。そこはマラルメのサロン、19世紀末のフランス文化の花形の場所だったんですね。シャブリエ、エリック・サティを知り「ボリス・ゴドノフ」の譜面に接して彼の一生は決まった。
このなかで エリック・サティとアンデパンダンこの言葉だけ なじみがあるのは

さいならさいなら
《 2015.12.22 Tue  _  1ぺーじ 》