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祖父母たちのこと

祖父母たちのこと

わたしたちは先祖からずっとつながって 今を生きています。
ところがほんの一代前の祖父母のことを私がどれほど知っているかといいますと 知らないことが多いですね。とくに私がうまれる前に亡くなっていたりすると なおさらのことです。
さて 父母がとくに母が教えてくれた祖父母たちのことを 思い出してみましょう。
もう話したのかな。これが66歳の特徴なんですよ(私だけだって おそれいります)
父方の祖父のことから推理してみることにします。明治41年生まれの父のお父さんですから ええっと計算できないんですけど 農家の末っ子でした。祖父が山崎の武家だった娘さんと恋愛結婚。これが祖母です。
隣に分家してもらって 新婚生活ははじまるわけです。しっかりものの祖母と末っ子の気の好さそうな祖父。やがて一人息子が神戸で先生になり 結婚もして孫が出来ると 祖父母は孫の面倒を見るために 神戸に行きます。都会に出た方が 気楽だったかも。これが推理です。ところが戦争が。第二次世界大戦です。みんなは戦火に見舞われます 神戸大空襲です。
みんなは 大変な生活をしいられました。家が焼かれた時点であの家にもどってきます。終戦の年に祖父母はあいついで亡くなっています。祖父母はさいごまで仲が良かったのでしょう そう思いたいですね。
父はそういう話をしませんでしたねえ。わたしが聞かなかったからでしょうか。母は戦火の中を逃げまわった人なので(父たちは疎開していた)何度でもその体験をリアルに話しましたよ。
さてはなしはかわりますが
テレビ歴史ドラマ『はなもゆ』や朝ドラ『朝がきた』などを見てみますと 江戸時代がおわり 明治にはいるときの具体的なな日本の変化がよくわかります。武家屋敷に出入りしてた(これは山崎藩主につかえていた武家かな?)武士清水清水(しみずきよみず)は祖母のお父さん。しかしその職を明治になってとかれるというか 職をなくすというか たちまちのうちに 次の仕事を見つけなければならなかったと思うのですが。 祖母は3姉妹の長女だったということです。 夜遅くまで姉妹は針仕事をしていたとか。 あのころは武家の娘は料理 作法 針仕事とひととうりのことを厳しくしつけられていたといいます。 祖母のぬったこどもの着物がのこっています。 袋などもね。それでも明治になって 生活に困る武士たちもいたと思います。そしてそれまでの武士の家柄にこだわることも。
母は祖母の気位の高さを感じていました。でも学校の先生をしてたから 一日中顔をあわせることもなかったし 母はよく「へっちゃらのへいだ」と口癖のように言いましたが なんとかきりぬけていたんでしょう。 祖母も孫4人をみたわけですから えらいですよね。祖父と共にね。
それでも祖父母の写真はのこっています。孫たちもおんぶしてもらいました。日曜日になると祖母はいい着物に着替えて お出かけしていたそうです。あたりまえですよね 息抜きも必要ですよね。おばあちゃんのきもちわかるよ〜。祖父もついていったのかしら?

母方の祖父母に関しては 祖父は母が小学三年生の時に亡くなっています。隠岐丸の船長をしていたそうです。祖父が亡くなったとたんに 生活は一変 ぜいたくはできなくなりました。 長男はそのときいくつぐらいだったのかしら? のちに漁師をして一家を支えています。7人兄弟だから大変苦労したと思います。 兄弟は上が下の面倒をみるというふうになっていて 亡くなった祖父の言ったように「学問をさせよ。金はなくなるが身につけたことはなくならない」ということで上の学校に兄弟助け合いながら行っています。
祖母は生活のため一時 置屋をしています。 当時としては大きな女性で 写真をみると元気そうで笑っています。 この祖母の笑顔が私は気に入ってまして 見るたびに私もこんなに笑おうと思います。 祖父の写真は残念ながら見たことがありません。

あの世で みなさんどうしていますか 

《 2015.10.23 Fri  _  思い出 》