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1ぺーじ

『ピカソとその周辺』フェルナンド・オリヴィエ著 佐藤義詮訳の続きです。1964年


ルソーとピカソ

 当時のパリーには、ドイツ人、ハンガリー人、ロシヤ人達が集まっていた。彼らは夢中になって美術の新運動を追いかけ、それに興味をもち、模写し、模倣し、曲解しているのだった。というのも、彼らはあまりにも乱暴に、あまりにも鈍重に模倣したからである。しかし、この連中もあの美術上の争闘の渦中に入りたがっていた。
 彼らの執拗さは、立体派のためにも、また彼らを精神的に統率していたピカソのためにも、役立つ点が多かった。
 ピカソは当時、名誉といういやなものの味を知ったが、やはりそれは彼を満足させていた。
 幸いにも彼の仕事と探究とは、すべてのものに先行していた。
 彼は画商たちの忠告などには耳を傾けずに仕事を続けていたので、彼らは心配せずには、彼の手法が変化するのを見ていることはできなかった。
 未来派もまた立体派に接木された形で出現しつつあった。
 立体派の一員になって眩惑するようなエッフェル塔を描いた画家のドゥローネイが、未来派の発展に寄与した事は疑うべくもない。
 後になってある離婚した婦人と結婚したウーデは、ルソーの作品を多数所有することになったが、しかもこれらは捨て値で買っていたものだった。
 貧乏で人の良い税関史ルソーの作品は、彼の子供っぽい見栄よりは彼の素朴さのお陰で、これを手に入れることははなはだ容易だった。彼は急に自分が重大視され出したことには驚かなかった。彼はそれほど真面目だったのだ!子供のような静かな気持ちで描いた絵が、一枚三十フランか五十フランで売れるということが、彼には不思議に思われるのだった。町内の商人たちはみんなルソーに「写して」もらった。商品としても値打ちのある肖像画を!

***

いやあきょうはゆっくり書いてられません。ピカソはいろんなことに耳を傾けなかった。それはいいことでしたね。変化しつづけることはともすれば画商にそういうことをおさえられたりもします。「売れなくなるよ」などと。
かれの仕事と探究とは、すべてのものに先行していた。ですね。
立体派とか未来派とかがでてきますね。ドゥローネイという画家ははじめて知りました。
 さて かのルソーが出てきますよ。 私はルソーの絵は子供のような絵だとはとても思えないといつも思うのですが そしてわたしがあんな絵が描けたら うれしいだろうなと思いますが、どうもあの頃は無邪気な子供のような表現として見られてたようですね。 そして安く買いたたかれています。町内の商人たちはみんなルソーに「写して」もらった。商品としても値打ちのある肖像画を!これはどういうことかな?

ピカソは当時、名誉という嫌なものの味を知ったが、やはりそれは彼を満足させていた。
幸いにも彼の仕事と探究とは、すべてのものに先行していた。

さいならさいなら
《 2015.07.04 Sat  _  ちまたの芸術論 》