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『印象派時代』 福島繁太郎著 光文社 昭和18年の続きです。


ロートレック

 といって、この特殊の地域に関する知識、例えばこのカッフェーはどういう風のものであったとか、またあの芸人はどんな人間であったとかを知らなければ、諸謂モンマルトル通でなければ、彼の芸術を理解し、批判できないものであろうか?特別の鑑賞態度を必要するという見解が一部には行われているようであり、式場博士もそのような事を述べられているが(ロートレック113頁)私はこの見解には同意し難い。
 絵画の美しさを感得するのは(感じ取ること)鑑賞者の勘、すなわち直感力によるもので、知識の如何によるものではないという一般的な原則は、ロートレックの場合にも通用すべきもので、特に除外例を認めなければならない理由を私は知らない。
 ロートレックの新鮮な山葵のごとき辛辣はその造型性より発散するもので、モンマルトルの酒場や寄席芸人等の特殊な題材よりくるものではない以上、題材に関する知識は彼の辛辣な美しさを感得する力を強化するものではない事は明らかである。彼の芸術はその場所や登場人物に関する知識の有無にかかわらず、時代を超え国境を越えて鑑賞者をうつ普遍的な美を持っている。多くの人々は式場博士の「ロートレック」を読むまではモンマルトルの酒場や芸人についてかほどの知識をもってはいなかったであろう。私もその一人で、式場博士のおかげでこれらの知識を得たが、しかしこの知識によって、ロートレックの芸術を鑑賞する力が強化されたとはさらに思わない。
 この普遍的美を持っていないものは、地方芸術または郷土芸術と呼ばれるものである。
作品自体に高度な芸術性を持たず、歴史的知識や地理的知識、若しくは考古学的士俗学的知識を競合せしめ初めて興味の対象となるものであるが、ロートレックの芸術は決して地方芸術ではない。他のモンマルトルの画家と称する人々、例えばアドルフ・ウイレットのごとき、モンマルトルの風俗圏として興味はあるが、純粋に造形的鑑賞の対象としては不十分なものとは同視すべきでない。しかしロートレックの題材があまり特殊なものに限定されているために、無意識の中に郷土芸術と混同するので、彼の芸術を鑑賞理解するにはモンマルトルに特別の知識が必要であるかの如く感じてくるのである。
 これを鑑賞上の問題としてではなく、彼の芸術の成立の上から観察する時、この環境の知識が必要となるのはもちろんだが、それは必ずしもロートレックの場合に限られたものではなく、いかなる画家においても同様に必要なのであるから、ことさら彼の芸術に関してのみいうのは妥当ではない。

***

式場博士 この博士は何もの? 山下清のことを書いていた人は式場俊三でしたよね。きっとえらい人なんだ。その人はロートレックの絵についてどう云ったんでしょう。つまりモンマルトルを見ずに ロートレックをかたれない。(ほかにもこんな文句ありましたね)こう言ったんですかね。かたや福島繁太郎は ロートレックの絵は普遍的な美を持つ芸術である。モンマルトルの知識がなくても十分感動できる ですかね。
当時のモンマルトルに再び行ける人はいませんから、その空気感とかはその絵を通して感じられると思うんですが そこまでロートレックの絵をモンマルトルとつなげて私は見てるのかなあ。でもロートレックのおかげで 今もモンマルトルではカンカンダンスなどやってると思いますがね。

普遍的な人間の姿とか面白さにも目がいきますが 福島繁太郎はそういった表現を「普遍的な美」としてるんですね。「美」この持って行き方が私には新鮮でした。それは見る人によっても違いがあると思うし。 ちょっとやらしく見てる人とか ひっくるめて「美」。
 
地方芸術とか郷土芸術まで持ち出してこられると そんなに区分けして 地方芸術にも悪いやんと私は困ってしまいます。
で「環境の知識」としてのモンマルトル必要ということで 手を打ちませんか(笑)。

鑑賞者の勘 直感力 
ロートレックの新鮮な山葵のごとき辛辣はその造型性より発散する

ロートレックは漫画家になっても いいの書いたでしょうね。

さいならさいなら 
《 2015.07.03 Fri  _  ちまたの芸術論 》