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『ピカソとその周辺』フェルナンド・オリヴィエ著 佐藤義詮訳の続きです。


愛好家

 ピカソとその友人たちは、幸運な時代に入った。他の仲間よりも一層ピカソにとって恵まれた時代だった。
 彼は辻芸人の連作から次第に抜け出して、立体主義への道を開拓していた。
 すでにお話ししたことのあるオリヴィエ・サンセールは良心的で熱心な愛好家だった。彼はほとんど規則的にピカソの家にやって来ては、油彩、デッサン、エッチングなどを買った。それは地味だが、確実な物質的援助だった。
 彼は近代画に対して心からの信頼を寄せていて、それを愛好家としてよりもむしろ芸術家として愛していたのである。
 彼が朝早くから訪ねて来たことや、そのために彼がとんだ光景を目にしなければならなかったことは、前にお話しした。
 これらの訪問のあとで、サンセールがテーブルの隅に二、三枚の百フラン札を置いて行った時、画家はどんなに喜んだことだろう!そんな日には夕方一党の面々が集まって晩餐を楽しみ、食後メドラノ曲芸団を見に行ったものだ。
 ある日、ピカソは兄妹二人のアメリカ人の思いがけない訪問を受けた。
 同じようなタイプだった。兄の方は一見教授風で、頭がはげ、金縁眼鏡をかけていた。赤みがかった長い顎髭、ひと癖ありそうな目、背の高い、頑丈なカラダ、物見高い態度、ぎこちない動作。アメリカ生まれのドイツ系ユダヤ人の生粋のタイプだった。
 妹の方は肥って、背が低く、ずんぐりしていて、格好の良い頭をし、丈夫そうだった。上品で、はっきりした整った顔立ちをし、理知的で、見識に富み、才気走った目を持っていた。純粋で明敏な精神の持ち主だった。彼女の声にも、すべての態度にも、男性的なものが感じられた。ピカソは彼ら二人にサゴの店であったことがあった。彼女とはまだ親しい間柄というわけでもないのに、この夫人の肉体的な個性に惹きつけられたので、彼女の想像画を描きたいと申し込んであった。
 二人とも栗色の畝織(せおり)のビロードの服を着て、彼らの友人であったレイモン・ダンカン風のサンダルをはいていた。ばかげたことに心を煩わされるにはあまりに聡明であり、他人が考えていたことを気にかけるにはあまりに自信に満ちていた彼らは裕福で、兄の方は画家を志望していた。妹の方は博学で、文学をやっており、ウェルズから称賛されたこともあったが、別にそれを自慢にしてもいなかった。
 彼らは近代絵画を、その芸術的価値を、またそれがかち得べき影響を理解していた。前衛画家とその作品との熱心な礼賛者である彼らは、理知的な感受性と鋭い勘と呼ばれるべきものをもっていた。
 かれらはわたしたちがよく言っていたように、直に新しい絵画に通じて、最初の訪問の時八百フランも買い取った。それは思いがけにことだった。
 彼らはピカソを晩餐に、またその友人たちを土曜日の夜会に来るように招待した。ピカソはそこで出会ったマチスとともに、その家で常に食事をともにする人間の一人になった。  スタイン兄妹は、フルーリュ街の大きな家の奥にある、アトリエ付きの離れに住んでいた。彼らの絵画の蒐集はすでに立派なものだった。ゴーガン、セザンヌの作品を所蔵し、中には、柘榴色(ざくろいろ)安楽椅子に腰掛けた青衣のあの美しいセザンヌ夫人像もあった。風景の中の水浴の女たちをはじめセザンヌの水彩画はおびただしい数にのぼっていた。あまり重要ではないが、とても感覚的なマネーの小品一点!グレコ一点、ルノワール数点、中でも、<うしろ向きの浴女>の輝く美しさ!素晴らしいマチス数点、例によって正確で冷たいヴァロットン一点、マンガン数点、ピュイ数点。その他にも多数あったが、その中にピカソのものが加えられることになった。
 多種多様な連中が土曜日毎に出入りした。あの好奇的な時代の若い芸術擁護者だったスタイン兄妹は、近代画家たちを世に知らせるためにずいぶん尽くしたものだ。
 更にスタイン兄弟の一人が妻とともにパリに移り住んだ。かれも絵画熱に取りつかれた
が、それは盲目的であって、あまり理解の上に立ったものではなかった。彼は熱心にピカソのものと、特にマチスのものを蒐集した。
 ずっと年上で、真面目で、慎重なマチスはピカソと考え方が違っていた。「北極」と「南極」のようなものだと、彼は自分たち二人のことを話す時に言っていた。

***

「ピカソは辻芸人の時代から抜け出して、立体主義への道を開拓していた。」オリヴィエ・サンセールやアメリカ人のスタイン兄妹に出会う。これらの出会いはピカソやマチスに取ってこの上もないラッキーな出会いだったんですね。でっぷり肥ったガートルード・スタインの肖像画は画集でよくお目にかかりました。オリヴィエ・サンセールはあったかな。こうしてここに登場する人物のことを読んでいますと もう一度画集でその人たちを見てみたくなります。アメリカ人の金持ちは西洋で絵を買い 後にピカソやマチスは有名になって もうかりましたね。ピカソはおもしろいですね。ガートルード・スタインの個性に惹きつけられて 描かせてくれと申し出るんですね。その肖像画は美人というよりは
でっぷりとした社長さんのようです。ピカソにかかると たとえ美人であっても・・・まあごらんになってください。
スタイン兄妹はすでにセザンヌやルノワール、グレコ、マチス、ヴァロットン、マンガン、ピュイそしてピカソとかなりのものを蒐集していたんですね。近代絵画を広めていったこの兄妹でしたね。
その後第二次世界大戦ですか。 ユダヤ人の人たちはアメリカにこうした作品を持って逃げ帰ったことでしょうが 戦後芸術の都は アメリカに移りますね。戦争でパリは打撃を受けた。ナチスにも痛めつけられますしね。あの頃のドイツは近代絵画に理解はなく排斥しようとしていましたね。このスタイン兄妹たちは そんなときどういう行動を取ったんでしょうね。この本に書かれてるかなあ。 どういうふうになるんでしょうか。

あの頃まとまった金が入るとピカソの周辺は仲間との晩餐会になり 社交性はなんてったって ピカソはありますね。そう思いませんか?メドラノ曲馬団を一緒に見に行ったりね。

さいならさいなら

《 2015.06.16 Tue  _  ちまたの芸術論 》