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『印象派時代』福島繁太郎著 光文社昭和18年の続きです。


ロートレック

 モンマルトルに居を写してから死に至るまでの15年間、夏の二三ヶ月をビスケイ湾の小さな入り江であるアルカションの水遊びに過ごすを例とした外は、毎夜のごとくモンマルトルの劇場に、カフェーに入り浸っていた。
 内面は陰鬱であるが、一面陽気でまたのんきの所もあるモンマルトルの環境に、限りない執着を彼は持っていたのである。嫌いなものなら頼まれもしないのに十五年間、毎晩出かけられるものか。この平凡な事実になにか深刻らしい理屈をつけたがるのは、ペダンティックな批評家の悪い癖である。彼は道化師や寄席芸人に親しみこそ感ずれ、憎悪の念などは少しも抱いていなかった。 しかし彼は単なる放蕩児ではない。卓抜なる素描家として、俊敏なるリアリストとして、このモンマルトルの特徴ある人物を捉えるのに躊躇しなかったに過ぎない。
 ロートレックが性格描写に特に興味を持っていたことは既に述べたが、彼はまた性格描写の秘密を心得ていた。凡そ人物の性格を描写するにあたっては、その特徴を鋭く把握しなければならないのは云うまでもないが、その表現はある程度その特徴を誇張しなければならない。彼は常にこの特徴の誇張を行ってその人物を生彩あらしめている。しかしこの誇張が度を超えると風刺に満ちたカリカチュルになってしまう。ロートレックは酒場のテーブルの上などで、気軽にこの略画のカリカチュルを多く描いているし、またそのカリカチュルが甚だ有名であるのも、ハネカーの説のごとき誤解を招く一因となっていると思う。しかしこのカリカチュルは何も深い考えがあってのことではなく、彼の皮肉な性格よりして極めて気軽に描いているので、これに重大な意味を附せんとするのは当を得たものではない。
 しかし、タブローとなるとロートレックも特徴の誇張をある程度に抑制する事を忘れてはいない。
 「黒い毛皮の女」(1892年、油絵)はうっかりすれば人の横っ面を張り倒しそうな荒々しい野性的な性格が十分に表現されているが、誇張が過ぎて醜悪にはなっていない。張り切った美しさの表現はまことに巧みに行われている。
 顔の所だけに強く光をあて強調して、ここに鑑賞者の視覚を集中せしめ、他の部分は省略し、バックなどはボール紙の素地を多く残している。この一見半出来のごとく見える手法は、彼のタブローにはしばしば見受けられ、また絵の具の油気を少なくしてさばさばした線状のタッチにして、コンテのごとく使用しているのも彼の技法の特徴である。

***

ここではカリカチュルというカタカナが出てきます。「気軽な略画」とでもいうのでしょうか。こんな言葉を使うと 物知りに見えますが。「誇張」もその中含まれているのですか。私はこのロートレックの「気軽な略画」と「誇張」に影響を受けたのかもしれませんね。若い頃 そのスタイルでもって 横顔専門 大人の女 のイラストを描き続けたものですが しばらくはこれがロートレックの影響かはわかりませんでした。
ところが 素描のうまいロートレックはいろんな角度から 人物をとらえてますね。私のような一つ覚えの 目をつぶっていても描けるようなイラストではありません。「誇張」もロートレックは抑制することもこころえていました。そしてなによりも相手をよくとらえています。 「黒い毛皮の女」は一瞬の表情です。たしかロートレックは「ドガ」に影響を受けていたんでしたね。あの「一瞬をみごとにとらえた」ドガです。
ペダンティック このカタカナはなんという意味でしたっけ? タブローということばはなんとなくわかりますが。

さいならさいなら


《 2015.06.15 Mon  _  ちまたの芸術論 》