who am ?I

PAGE TOP

  • 06
  • 14

1ぺーじ

『音楽と文化』河上徹太郎著 創元社手話13年発行の続きです。

モツアルト

 前頃私は近代西洋音楽の三人の革命的作曲家はバッハとショパンとドッビシーであると述べたが、モツアルトの純粋な天才はある意味でこれら三人の天才をも含めて全音楽家の上に出ているかも知れないのである。つまり高度の純粋さが結局あらゆる属性を失って無性格になるように、モツアルトの強烈に個性的な創造は、かえって形容を絶した天来の音楽となり、音階そのものの美のような抽象性まで達しているのである。たとえば「ドン・ジュアン」や「フィガロの結婚」の中の美しいアリアを聞いてみたまえ。あまり美し過ぎて、この世のものの印象を失い、正確な音階や単純な基本的和声を聞くような感を受けるのは私一人ではあるまい。
 この天真な音楽の創造者は、それに劣らず天真な性格の持ち主であった。つまり人を信じやすい、無邪気な、美に対して無条件に感動する、永遠の小児であった。ドイツ浪漫派の典型的詩人であるメリケの作品に「プラーグの旅路にあるモツアルト」と呼ぶ小説がある。メリケはモツアルトの音楽を熱愛し、この人物を無上に崇拝していたが、その結晶がこの小説である。これを読むとモツアルトの無邪気な浪漫的性格が実に美しく描いてある。つまりモツアルトの音楽を熱愛する文学者の夢が、この人物を描写する事によってそのまま満足されるということは、モツアルトの天才の純粋さの一つの證據(とうきょ・証拠)といえよう。
 これと同じ事情からであるが、美学において天才が芸術を創造する原理を分析研究するのに、絵画でも文学でもなくモツアルトの音楽がよく引き合いに出される。ヘルマン・コーヘンの美学的著述の中にも、モツアルトのオペラを論じたものが一冊ある。つまりモツアルトの完璧な天才の発露が、美学者が理論的に立てた美学体系と完全に一致しているからだ。美学の応用に役立つ点、モツアルトは恐らくゲーテと並んで完璧な天才である。
 モツアルトの一生は実に頻繁に旅行をして過ごされたが、そのおかげで行く先々から両親その他にあてただいぶの書簡集が残されている。これがまた今述べたような天才の純真さに満ちているので、彼の音楽にに劣らず多くの愛好者に愛読されている。これをよむといかに美神が天上からまいおりて天才の頭脳に宿るかが如実に現れているのである。それは以下彼の生涯を述べる中で若干引用するであろう。

***

徹太郎さんのモツアルトのほめかたはどうです? かのバッハ、ショパン、ドビッシーを上回る? つまり天才の中の天才は だれかと競い合うようなレベルではないということなんですかね。「形容を絶した天来の音楽となり、音階そのものの美のような抽象性まで達しているのである。」よくここまでほめられたもんですね(笑)
「この天真の音楽の創造者は、それに劣らず天真な性格の持ち主であった。」

私はかねてから天才ってどういう人のことをいうのかしらと思っていました。
モーツアルトに関して云えば 天才はすでに子どものときに発症しており(笑)こどもだからこそ 純粋な天才がたくさんあり そのままそろりそろりと大人に移行すれば 天才の泉は「かれない」のかもしれません。そして世俗的な事にそまらないで たとえその態度が子どもっぽいと 非難されようとも 歩調が合わないと まゆをしかめられようとも
奇人といわれようとも なんて勝手にどんどん天才話しちゃって。すんません。
モーツアルトのことを映画にした「アマデウス」のいろんなシーンはまさにそのとうりでしたよね。そうかこんな純粋な魂は大人に変化しなかったら 生きるのが大変かもしれないですね。 この純粋な魂のことを思うと 早死にしたモーツアルトのことがせつなくなりますね。
Rosemary  Brown のところには3回やってきただけのモーツアルト。どうしてでしょうね。次の回は そのモーツアルトの性格なんかをみていきますね。
「美学において天才が芸術を創造する原理を分析研究するのに、絵画でも文学でもなくモツアルトの音楽がよく引き合いに出される」そうなんだ これで天才とはなんなんだ がわかりますね。

さいならさいなら 
《 2015.06.14 Sun  _  ちまたの芸術論 》