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1ぺーじ

『音楽と文化』河上徹太郎著 創元社昭和13年発行の続きです。


モツアルト

 モツアルトの天才は、例えばベートーヴェンやワグネルなどの天才とは別のものである。
ベートーヴェンの天才とは、いわばその素晴らしい構成力、にじみ出るような重量感、人間の宿命そのものの悲劇のような生涯を貫く意志の力、そういうものに現れていて、ワグネルの天才とは、従来の貴族的な室内楽にすぎなかった音楽を、あの大劇場で演ぜられる物々しい劇をささえるにたるだけの厖大な浪漫精神を音楽に盛る創造力にある。しかるにモツアルトの天才は全く音楽的な点にある。一つ一つの音の純粋に霊感に満ちた発見である。だからモツアルトほど永遠に若い音楽はない。彼は音楽史の上では、ハイドンと並んでソナタや交響曲の創始者であり、ドイツ古典時代の音楽家であるが、ハイドンの天才が丁度ソナタ形式を確立するだけの音楽性を示しているに対し、モツアルトの音楽は、やはりこの形式を踏襲していながら、音が形式を引っ張って先に立っている。音の純真さが溌剌として躍動するそのあとに形式がついて成り立っている。つまりある種の似面比天才のように音の自由さが形式を破壊するのではない。音があまり純粋なものだから、その中に先天的に含まれている形式性が自ずと出て来るのである。だから例えばベートーヴェンの形式は、よく要約された主題が慎重綿密に発展させられて実に倫理的に構成されているが、モツアルトの主題は甚だ率直であり、その展開も全く自由でかつ即興的である。あらかじめ何の用意もなく音楽の流れに身を任せ、口から出まかせに歌っているようで、それで歌が途絶えもせねば、いい直しをする必要もない。それほど自分の中から湧く音楽の泉の豊富さに自信を持ち安心し切っている。たとえばソナタやコンチェルトの展開部など、主題など少しも考えずに、すぐ前の結びの一小節くらいを繰り返し、これを転調したりして()んでいるうちに、自ずと全楽章に相応する、絢爛重厚な展開部ができたりする。またある交響楽などでは、主題的旋律などは二の次にして、唯一本のオーボーやクラリネットの音を受け渡しているだけで展開部が出来たりする。しかもそういう場合、その一本の音が実に新鮮な、驚嘆すべき音程を、誤たずさしているのである。この驚異に満ちた即興性こそ、真の天才の定義ではあるまいか? そして同時に彼がドイツ・クラシックなどいう音楽史的位置を超越して、直接我々に音楽そのものの如く新鮮に響く所以ではあるまいか?

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モツアルトはモーツアルトと今は呼んでいますよね。ワグネルはワーグナーかな。
この音楽家たちの天才のありかについて 徹太郎さんはくわしくのべていますね。私はその天才のありかがそれぞれあるということが なんかうれしいです。
ベートーヴェンの天才とは「いわばその素晴らしい構成力、にじみ出るような重量感、人間の宿命そのものの悲劇のような生涯を貫く意志の力」ですか。うまいこといいますねえ。 ワグネルは「従来の貴族的な室内楽にすぎなかった音楽を、あの大劇場で演ぜられる物々しい劇をささえるにたるだけの厖大な浪漫精神を音楽に盛る創造力にある」大劇場での音楽は室内楽とはちがった力がいるんや。
しかるにモツアルトの天才は「全く音楽的な点にある」「一つ一つの音の純粋に霊感に満ちた発見である」「だからモツアルトほど永遠に若い音楽はない」か・・・。
ショパンはどー?と聞いてみたくなるんだけど 。ソナタや交響曲とピアノ曲 これはモツアルトとショパンは比較したらいかんですね。バッハとショパン、ハイドンとモツアルトですね。
「音が形式を引っ張って先に立っている。音の純真さが溌剌として躍動するそのあとに形式がついて成り立っている。」「音の自由さが形式を破壊するのではない。音があまり純粋なものだから、その中に先天的に含まれている形式性が自ずと出て来るのである。」
ここらへんから みんなメモを忘れたらあかんところですね。つまり一つ一つがモツアルトの重要なことなんですね。モツアルトはその音を聞くだけで 気分が良くなってきますよ などと言われていますが 理屈抜きに音がすばらしいわけなんですね。
「直接我々に音楽そのもののごとく新鮮に響く音」なんですね。また聴いてみなあかんですね。

さいならさいなら 
《 2015.06.10 Wed  _  ちまたの芸術論 》