who am ?I

PAGE TOP

  • 06
  • 07

1ぺーじ

スキャン818.jpeg

『関係のフラグメントII』中島らもとチャールズ・ブコウスキー 若しくは、ヘンリーミラーの息子達 のつづきです。


 僕は現代美術というものから、たった一つのことを学んで現実の生活に戻った。それは無化するということ。 歴史やこの社会の中で作られた制度や価値(吉本隆明が共同幻想と名づけたものだ、それらいっさいを否定するのではなく無化するということ。幼児や子供達が初めて見るもの、ふれるものに対して、新鮮な驚きや、興味でもって接するように、具体的な事物や行為を、自らの自由な意志と経験でもって、この世界をとらえなおすこと。それはやりがいのある、とても孤独な作業。僕にそれが出来ているとはおもわない。ただ学んだだけ。

 大町市にあるミラー美術館で、ミラーの作品を観ながら、なつかしさとともに新しい発見と驚きを感じた。'70年代のミラー80才をすぎた絵は、以前にまして無防備で無頓着な、なにものにもとらわれない自由な素描と色彩であふれていた。' 80年代あまりにも観念的になってしまった現代美術に反発するように突如徒花(あだばな)のように出現したニューペインティングを先取りしたようなオリジナルな絵画に。
 晩年のミラーは病に冒され、動くこともできなかった。その彼がこのような絵を描きつづけたのはなぜか?そのことがとても気にかかった。昨年ミラー協会主宰のセミナーで、そのことを尋ねてみた。「老人力」ということばが返ってきた。
 それは違う。80になっても若い女性に恋し、人に安楽死を勧めるミラーに、老人力など無縁だ。ミラーも世界を無化し、自分自身を生きようとしたのだ。もしかしたらミラーは、絵の中でしかそのことを実現できなかったのかもしれない。何かそれがミラーに最後まで残された課題のように思えた。絵を見つめながら、そんなことを感じた。
中島らもの例のバック・ドロップにも、信仰なしに、死と向き合うブコウスキーにも、この世界を無化する意志のようなものが漂っている。

 母のことを考えていたら、子供の頃のあることを思い出した。いろんな事があって、死にたいとおもうような孤独を感じた。周りの大人達に傷つけられたのだ。そして僕もそれに見合うほど、彼らを傷つけていた。今だからきづくこと。母は僕以上に傷つき、悲しかったのかもしれない。
 なにかをしようとするとき、いつもこんなことが起こる。正義や聖戦を呼びながら、今もどこかで繰り返されている争いも結局は、同じようなものだ。ミラーもその子供達も、乾いたナイーブな心の奥に、無数の傷を負っていたはずだ。自分自身を生きるため、彼らもまた、人知れず誰かを傷つけていたはずだ。

 こんなことを考えていたら、中島らもの解説の言葉の意味がわかったような気がした。
 生の根源の問題・道しるべのない、存在としての「まなざし」・・・・・・。
 自分自身を生きることは、この「まなざし」の中で生きること。ミラーとその息子達は、その作品態度によって、そのことを示してくれているのだ。

       死と向きあうのはとても孤独な作業
        生と死・それは計り知れない
       過去と未来の時間のはざまで、
       矛盾にみちた、たわごとのような
           一瞬のスキマ
          無宗教という宗教
         そんなものがあってもいい。
            うまくいけば、
          この宇宙と向きあうほどの
       壮大ななにかをみつけだせるかもしれない。

***

いやあ 面白かった。
「生と死・それは計り知れない 過去と未来のはざまで、矛盾にみちた、たわごとのような 一瞬のスキマ」生と死のはざまって矛盾にみちた一瞬のスキマなんや。
自分自身を生きるとは存在としての「まなざし」の中で生きることー これはまだわかったようで私にはわかりません。自分自身を生きようとする そんなことに向かっていたら 「ほら すでに生きてしまってたその結果があんた自身だよ」と 誰かに教えられて頭をかく。ぽとんと落とされて なんかわからんままに必死で泳いでる そんな姿が見えます。つまり我々のそんな姿をみてる「存在」があるんかなあ。

「僕は現代美術というものから、たった一つのことを学んで現実の生活に戻った」「それは無化するということ。歴史やこの社会で作られた制度や価値、それらいっさいを否定するのではなくて無化するということ」「幼児や子供達が初めて見るもの、ふれるものに対して、新鮮な驚きや、興味でもって接するように、具体的な事物や行為を、自らの自由な意志と経験でもって、この世界をとらえなおすこと。それはやりがいのある、とても孤独な作業」
なるほど。
「そやけどなあ」そういって 否定していたのは私。ちょっとおしかったな。「無化」してみたらよかったんや。私の作品の中に少しぐらい「無化」出てへんかなあ。
ミラーやブコウスキーや中島らもの「無化」のしかたが いけてるんやろなあ。
立岡さん いい出会いでしたね。

ミラーの80才をすぎた絵は、「以前にもまして」無防備な無頓着な、なにものにもとらわれない自由な、素描と色彩であふれていた。
無防備も無頓着もなにものにもとらわれない自由も なかなか得られるものではないのでしょうね。「自由じゃないから 自由をおっかけるのですよ」私はよくそういいました。年取って得られるものの一つかもしれませんね。絵はたしかに才能の成せる技かもしれませんが画家達はその中に「求めるもの」を秘めているのですね。

そして最後の立岡さんの文章がぐっときましたよ。
子供の頃の いろんな事があって 死にたいとおもうような孤独を感じた。
「まわりの大人達に傷つけられたのだ」
「そして僕もそれに見合うほど、彼らを傷つけていた。今だからきづくこと。母は僕以上に傷つき、悲しかったのかもしれない。」
「ミラーもその息子達も、乾いたナイーブなこ心の奥に、無数の傷を負っていたはずだ。自分自身を生きるため、彼らもまた、人知れず誰かを傷つけていたはずだ。」

多くの人へのことばですね。

さいならさいなら

《 2015.06.07 Sun  _  ちまたの芸術論 》