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『ピカソとその周辺』フェルナンド・オリヴィエ著 佐藤義詮訳 1964年


アンドレ・サルモン

 サルモンはそのころサン・ヴァンサン街の小さなアパートからこの家に引っ越してきた。前のアパートの持ち主はラメット夫人で、彼はいつも面白おかしく彼女の話をして聞かせた。またそこはサン・ヴァンサンの墓地の近くで、彼の部屋の窓は「ラパン・ア・ジル」に面する一方、その墓地にも面していた。
 話上手のサルモンはとてもきわどい話を巧みに物語るのだった。サルモンは友人のギョーム・アポリネールやマックス・ジャコブとはまるで違って、微妙で、鋭敏で、繊細で、優雅な神経を持っていた。皮肉屋だが愛想もよく詩人である彼はおそらく、他の人たちよ
り一層感情にもろかったのだ。いつも感受性の強い夢想家であり、背が高く、やせていて、上品で、青ざめた顔に聡明そうな瞳を浮かべて、彼はとても若々しく見えた。それに彼はちっとも変わらなかった。細長い手に独特の持ち方で木のパイプを握り、いつも煙草をふかしていた。幾分ぎこちない不器用な身振りは、彼の気の弱さをうかがわせるものだった。
 彼の親友のクレムニッツは私たちとも親しかった。小さな赤毛の頤髭(あごひげ)を生やしていた当時のクレムニッツは、今はどうしていることだろう?彼はあの反抗精神と激しい独創性を失ったろうか?繊細でユーモアに富んだ男で、人々は彼の毒舌を恐れたものだが、またそれを面白がりもした。冷静で、陽気な皮肉屋だった。
 彼は響きのいない、またしばしば調子はずれの声で古い美しい船乗りの歌を歌ったものだ。陽気になることはあるが、乙に澄ますようなことはなかった。けれども、私たちのうちの誰かをやっつける時の彼の悪口は必ずしも理に適っていなかった。そんな時彼の隠しきれない一種の嫉妬が感じられたものだ。
 彼は死に先立つ数ヶ月前に、やっと私が知己になったジャリーの旧友だった。彼等が集めてきた酒をよく一緒に夜通し飲み明かして、残りはジャリーが自分の家に持って帰ったのを私は覚えている。
 クレムニッツ!もし彼の気を損ねたり、嫌な思いをさせたりする心配さえなければ、わたしはここで数々の愉快できわどい話をお聞かせすることができるのだが!
 よく彼が若い彫刻家のアンドレ・ドニケーと一緒にいる所を見かけたものだ。アンドレは博物館の教授の息子で、植物園の構内に建っていたアパルトマンの両親の家に住んでいた。夜分、彼がそこへ私たちを連れて行ってくれたことが数度あった。すべてのものがとても神秘的に見えて、私たちは恐怖を抱いたほどだった。私はどこを歩いても罠がしかけてあるような気がするのだった。一足ごとに、一瞬ごとに、野獣が、肉食鳥が、茂みのなかに潜んでいる爬虫類が跳び出して来るのではないかという気がした。けれども、この散策には特別な不安な胸騒ぎのする魅力が潜んでいたので、みんなは喜んでそれを繰りかえしたものだ。
 酷熱の昼間が過ぎてからこの散策をするのは、何といっても爽快なものだった。
 ポレット・フィリッピーはポール・フォールの友だちだった。私たちはたびたび、時にはブラックを、またはマルゲリット・ジローをお伴に連れたご両人に出会った。詩人公爵の優しい恋人だったマルゲリットは、皮肉屋で、悪賢くて、移り気なモンマルトル魂をもったポレットとはまるで反対で、おとなしくて感傷的なように思われた。
 マルゲリット。ジローは中世紀風の物腰と容貌の詩人だった。二本の濃いブロンドのお下げ髪が彼女の顔を包み込むようにして、地面まで垂れ下がっていた。彼女は、ある日恋人に待ちぼうけを食らった口惜しまぎれに、お下げ髪の片方を切り取ってしまった。この憂愁に満ちた夢見がちの今は亡き閨秀詩人は(けいしゅうしじん)、朝は白葡萄酒を一壜あけずにはおきだせなかったとかいうことだ。
 私たちの仲間にはジャン・モレもいたが、彼は絶えず仕事を探しているくせに、内心仕事が見つかったら困るといった風の男だった。彼はアポリネールの世話役で、ギョームの相談相手にもなれば、また彼の母親の相談相手にもなった。彼を通して、私たちはこの詩人の母親の神秘的な私生活に関する多くのことを知ったのである。彼は喜んで誰や彼やの内輪話をしゃべったものだ。私にはどうも彼が事実に輪をかけて吹聴したのではないかと思われる。
 呪われた詩人の一人であったエドワール・ガザニヨンは、彼の夢想や悲哀や家庭生活と文学上の幻滅をわたしたちに聞かせたものだ。彼は得意そうに、彼の「小さな詩帖」の話をよくした。この詩帖なるものは、話ばかりで、その姿にはついぞ一度もお目にかかったことが亡かったので、私たちは笑ったものだ。ところがとうとうこの詩帖はなかなか値打ちのある古本となって私たちの前に現れた。
 金髪白()で、紅顔の神経衰弱者であった彼のあらゆる点が、ネクタイの選択から始まって自分の妻の貞節についての疑惑に至るまでが、彼を物思いがちな、陰鬱な人間に思わせた。彼は優しく感傷的で、時々発作的に毒舌を振るうと、才気溌剌たるものがあった。しかしいずれにせよ、彼は私の知る限りでは最も人情に厚い人間だった。そして彼の友人たちーなかでもカルコは彼の親友だったがーも、私と同じ思い出を持っていることと思う。 カルコはその当時とても若くてまるで子どもだったが、思慮に富んでいてすでに人生の表裏に通じていたものだ。絶えず警戒的で、嘲笑的で、癖のある、観察力の鋭い彼の目は、すべてのものを吸収していた。私が初めて彼を知ったのは、彼が同居していたエドワール・ガザニヨンの家である。その後ある日、私は「ラパン・ア・ジル」で彼に会った。彼はテーブルの上にのって、「カフェ・コンセール」の歌手の様子を巧みに面白くまねしながら、当時の流行歌を歌っていた。
     ルルちゃん、
     お前は美人じゃないが、
     わたしが一生愛してあげる
     気が狂うほど。

***

またもや長かったーです。オリヴィエにいろんな人を紹介してもらっていくうちに なんか あんまりその人たちが 世間一般とは違うようで かえってうれしくなりました。
「まともな」ということばなんて 芸術家たちには じゃまになるのではないかと思っても決しておかしくないと。そんな人たちが集まっている所では 変な人もいそうだし 迷惑をかけっぱなしの人もいそうですね。でもこの濃い空気の中を生きるのは 大変そうだな わたしには どっちつかずやちゅうねんや。
そういえば若い頃 こんな大変そうな芸術家達のことを本で読むたびに その気分にひたったものだったなあ。わたしもこんな所で洗礼を受けてたら どんなんになってたやろ。
パリの貧乏芸術家 ボロボロ(笑)
それにしてもオリヴィエはどういう一生を送ったんでしょう。ピカソは彼女と別れてからあとも何らかの接点をもったのか。ピカソの一生はいやというほど読んできましたが オリヴィエのことは全く知りません。彼女のまわりにいた芸術家達が興味深いのか オリヴィエの観察眼と筆力がすばらしいのか 打ちながら 本来なら 人差し指の過ぎた労働に根を上げそうになるはずですが 打つことでしっかり読めるのです。

「当時のクレムニッツは、今はどうしていることだろう?彼はあの反抗精神と烈しい独創性を失っただろうか?繊細でユーモアに富ん男で、人々は彼の毒舌を恐れたものだが、またそれを面白がりもした。冷静で、陽気な皮肉屋だった。」
皮肉屋がこんなにみとめられているような世界。刺激だとさえまわりはうけとめているようです。

さいならさいなら

《 2015.06.06 Sat  _  ちまたの芸術論 》