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                        オリヴィエ筆ローランサン

『ピカソとその周辺』 フエルナンド・オリヴィエ著 佐藤義詮訳 1964発行
の続きです。


 ヴァン・ドンゲンが妻と娘を連れて、ラヴィニヤン広場の「洗濯船」に引っ越してきたのは、1905年のことである。
 それから続いて、マック・オルランがやって来た。彼は最初、サルモンやマックス・ジャコブやルヴェルディが次々に住んでいた地下室のアトリエに住んだ。画家のジャック・ヴァイヤンがヴァン・ドンゲンの後を継ぎ、それからエルバンやアジェロやドイツ人画家のフィゲルスが住んだ。フィゲルスは一夜泥酔したあげく自殺した。 
 ヴラマンクはたびたびヴァン・ドンゲンの家に訪ねてきた。「ピカソ党」と呼ばれた人々はそこで彼と知己になったのである。彼はその当時妻と三人の娘と一緒にシャトゥー
に住んでいた。彼は他の連中よりも一層ひどい貧乏生活をしていたので、夕方シャトゥー
まで歩いて帰らなければんらないようなことがたびたびあった。
 ヴァン・ドンゲンの一家は、お客のおもてなしがよかった。愛想のよい画家の夫人はお客に取り巻かれているのが好きだった。その当時、彼女はしばしば一ヶ月百フランたらずのお金で家計を立てていたのを、私は知っている。
 ピカソは、いつも彼を「タブロ」と呼ぶ末っ娘を相手に幾時間も遊び戯れていた。
ヴァン・ドンゲンはスケッチブックを手にして、モンマルトルのダンスホールやカッフェでよく夜を過ごしたものだ。彼はモンマルトルの生活に深く入り浸っていた。彼はそこから彼の世俗的な肖像画のあるものに認められるあの写実的な、多少卑俗でさえある手法を身につけたのである。
 ピエール・マック・オルランは、その当時はまだピエール・デュマルシェと言っていた。足の短い犬を後に従えて、丘の上を憂鬱そうにさまよっている彼によく出会ったものである。
 マック・オルランの面影には、ピカソに、それも冬のピカソに多少似かよっていた。冬になるとピカソはだぶだぶで、丈の長過ぎる忘れ難い外套を、裾が踵をうつほどぞろりと着込んでいたが、人並み以上に寒がりやの彼にはそれでもまだ寒くてやりきれないのだった。デュマルシェも同じようなマントを着、同じような鳥打ち帽を被っていたけれども夏になって外套を脱いで、この鳥打帽を被っていると、やせた姿のせいで競馬の騎手のように見えた。
 それに当時のマック・オルランは、だれよりもビビ・ラ・ピュレに一番よく似ていた。
ラヴィニャン街では、先にお話ししたドイツ人画家の友人のウーデはもとドイツ軍の将校だったが、作家で美術批評家であった。最初に彼は、ルソーを「掘り出し」、安い値で、この画家の数多くの絵を手に入れた、また彼は立体主義の熱心な賛美者で、画家達を援助し、彼等を種々の社会や外国に紹介した。
 そのころ私たちは阿片をすっていたが、燃しフィゲルが死ななかったら、私たちも不吉なことになったかも知れなかった。彼の自殺以来、私たちはぴったりとこの悪癖を棄てた。彼が自殺したアトリエは、数日の間私たちにとって恐ろしい場所だった。私たちはどこへいっても、最後に彼を見た時のままに、首を吊るあのかうぃそうな少年の姿が目先にちらついた。私たちは彼を惜しみ、彼のために涙を流した。彼はサン・トワンの墓地に葬られた。友人たちは一人残らず彼の葬式に連た。そして帰途「ラパン・ア・ジル」に立ち寄った。そこで元気をつけて彼の死を忘れようとした。その後たれも彼の墓に詣でたものはなかったが、もうほんの一服でも阿片を吸うものはなかった。
 ルヴェルディも当時は豊かではなかった。そして彼の妻は、アジェロの妻と同じく裁縫の内職をやり、彼女たちの偉人を養うために夜を徹して縫いものをしたこともたびたびあった。 画家のジャック・ヴァイヤンがこの家に引っ越して来ると、再び毎晩乱痴気騒ぎが始まった。
 かれは陽気で、社交的で、よく仕事もするが、飲む事もよく飲み、すぐ熱狂して、歌ったり、わめいたり、何でも打ちこわしたり、少し飲みすぎると、きまって毎晩のことだったが、歯ぎしりに似た実に風変わりな笑い声をたてたものだ。
 この煽動者は、それでなくてもしばしば度を過すこの家の騒ぎに更に輪をかけたので、自分の気に入った画家たちには親切な門番のかみさんも、彼にはひどく腹を立てていた。
 彼女は、そこで暮らしたすべての人の思い出の中で、ささやかな場所を占めているに違いない。彼等が部屋代を滞らしても、一度も彼女から嫌みを聞くような事はなかった。彼女がきまりをつけようとしても無駄だったので、しっこくは言わなかったのだ。ピカソの家に朝早くからやって来る美術愛好家たちを案内してきたのは彼女だった。
 ピカソは朝は決して戸口を開けたことがなかった。門番のかみさんは、その事情もまたその他のこと、たとえばいつもさし迫ってお金が必要であるということも知っていたので、朝早くやって来るお客を案内して来ると、自分で戸口を叩いて呼んだものだ。
 「ピカソさん、ピカソさん、戸を開けてください、大事なお客さんですよ」
 ぐっすり眠っていたピカソは寝床からとびおき、同時に、彼の愛人は隣の部屋に逃げ込むのだった。
 彼は戸を開けた。
 するとよくオリヴィエ・サンセールがそこに立っていて、だらしない身なりに一向平気なピカソに、ズボンをはくように、まず頼むのだった。
 ラヴィニャン街のこの家は、一風変わった建て方だった。中に入ると、数個のアトリエが地階にあった。そのくせガロー街の中庭に面した五階や六階に当たる他のアトリエに行くのには、更に降りなければならなかった。

***

私にしたら長い文章でしたね。オリヴィエの文章はそれを読むだけで なにもかもそろっているようです。1905年というのは日本では1904年に日露戦争が起きています。
「ピカソ党」といった画家たちはこの変わった建物で さまざまな顔ぶれのもと モンマルトルに出入りしたりしながら 絵を描き続けていたのですね。
ピカソのもとには美術愛好家がやってきますが めったに朝早くには戸を開けないピカソも 仕事になりそうな相手には戸を開けていましたね。管理人のおかみさんも そんな客をつれてきていました。
 そのころピカソたちは阿片を吸っていたのですね。ところが若いフィゲルスがそれで自殺すると その習慣はぴたっと止まったのですね。恐ろしい経験をすると わかるのですね。 歯ぎしりに似た風変わりな笑い声をたてるジャック・ヴァイヤンのはためいわくな乱痴気騒ぎも大変でした。しかし みんながいっしょになんとかいる。面白がっているむきもある。管理人のおかみさんも なかばあきらめて 客を紹介したりしている。
ピカソたちはこんな中で たくましくときにはぬけめなく 絵を描き売り出して行ったんですね。すごいわ。
オリヴィエのマリーローランサン いいですね。
ピカソはルソーを世に出す役割をしたのだとおもいますが ドイツ人画家の友人ウーデがルソーの作品を安く買ってたんですね。ウーデという人は元ドイツ軍の将校で作家で美術批評家。当時のフランスはいろんな国から人が集まって来るでしょう。いろんな批評がうまれ いい絵も生まれた。活気があったんでしょうね。

さいならさいなら
《 2015.06.01 Mon  _  ちまたの芸術論 》