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『ピカソとその周辺』フェルナンド・オリヴィエ著 佐藤義詮訳の続きです。


スーリエ親爺

 この自分からピカソは、次第に外出しなくなった。家の中で生活し、友人たちも彼の休憩時間にきまって訪ねて来るようになった。
 それに制作中は誰が扉を叩いても、扉はそのまま鎖されていた。
 彼が好んで夜中に制作したことは既にお話した通りだ。深い沈黙と静寂が彼をたすけ、彼の感興をそそったのだった。彼はよく四時過ぎてから起きて来た。友人たちに会い、食事をし、おしゃべりをして、十時になると彼らと別れて制作にとりかかり、朝の五時か六時にならないと手を休めなかった。
 けれども、彼の休息時間のことや彼の習慣をあまり気にしない訪問者たちが、午前中にやって来て彼をおこしでもしようものなら、それこそ怒こったの怒らないのって! 彼は起きると彼らを罵倒し、しばしば無遠慮な荒々しい言葉でさっさと出て行くようにせき立てたものだ。
 けれども、愛好者たちや画商たちが彼を訪ねてくるようになったので、そんな生活様式を改めなければならなくなった。日中にこれらの訪問者たちと面会することが必要になったのである。 
 殊にドイツ人が彼の芸術に興味をもつようになった。彼らはその理解力で他国人以上に彼の芸術に共鳴したのである。
 造形芸術というものをほとんど科学的に探究しようとするあまり、美術の感受性の方面のことは恐らく多少軽視している。
 ピカソはそこで新しい生活様式に腰を据えたようだった。日光が直射する画布を前にして制作していた。描くものによって、床に座ったり、低い腰掛けに掛けたり、立ったままでカンバスは床に置いて画架に立て掛けることが一番多かった。パレット、筆、絵具は彼の右側にちらかっていた。彼は絵の具をとくのに、ランプに用いていたのと同じ石油を使っていた。筆は豹の毛製のものだった。
 その頃彼の買いつけの絵具屋はルピック街のシュワルツ・モーランだった。彼はかなり長い間貸売りしてくれたが、滞納額が九百フランに達したので、ある日突然それを拒絶した。
 それは困ったことだった。
 新規の買手がある日ピカソの家に現れた。それはメドラノ曲馬団の向い側のマルティール街で家具と骨董を商う店の主人だった。彼はスーリエ親爺と呼ばれていた。一体何がきっかけでピカソの作品が欲しくなったのだろう?彼はしばしばアトリエを訪ねて来るようになった。そしてデッサンを数フランで買ったものだ。誰にそれをまた売りつけていたのだろう?誰か愛好者がついていたのかしら?多分間違いだろうが、私はいつもこの男はロルメルの筆名で物を書き、ある画家たちの足元につけこんで、とても安く買おうとしていた馬の競売執行吏のリボートに雇われているのではないかと思っていた。
 話をスーリエ親爺のことに戻すと、彼とピカソの取引は近所の居酒屋の亜鉛張りのスタンドで行われたものだ。彼は必ず一献献じることを忘れないばかりか、その時アトリエに居合わせた者は一人残らず招待するのだった。彼はある日やって来ると、ピカソにすぐ貰って行けるような花の習作が一枚ないかと訊ねた。ピカソは出来たのがないから一枚彼のために描いてやろうと言った。
 「ところが明日入用なんですがね!」スーリエ親爺が息をはずませて言った。「よろしい、明日の夕方お渡ししましょう。ただ絵の具が乾きますまいよ!」
 「そりや困った、せいぜい注意して持って行きましょう」
 ところが不幸なことに、絵を描こうにもピカソはホワイトの持ち合わせがなく、絵の具屋から一切貸売りを拒まれていた。
 「畜生!ホワイト無しでやっつけよう・・・」と彼は独り言を言った。
 そして彼はその言葉通りにした。この鮮やかな色の美しい花のかなりの大作はスーリエ親爺に二十フランで買われた。あの絵はどうなったことやら?
 この商人の家で、ピカソはその後五フランで税関吏ルッソーの絵を手に入れた。それはパリ城郭の風景の見える、窓を背景にした等身大の夫人像だった。
 けれども、こんな条件の下で制作しなければならないのは、どんなに厭なことだったろう!しばしば辛い時もあったが、彼は制作中弱気も見せずにそれを耐え忍んでいた。これこそ、私が彼に一番感心していた点であった。
 それに彼は一度でも自己の芸術以外のもののために生きたことがあったろうか?かなり淋しがりやで皮肉で、時には多少憂鬱症的なこの男は、決してその心を慰められることがなかった。(なぜなら、彼は常に心のうちに大きな苦悩をもっていたようだったから)。然し自己の制作の中に、制作に対する愛情の中に、自己を忘れて没頭することができたのだ。
 描き、探究することだった。丁度マックス・ジャコブやギョーム・アポリネールにとって、何よりも仕事をし、精神を刺戟し、それを働かせて幻影を生むことが欲求だったように。
 それにピカソは自分の気に入らない仕事を引き受けてやるより、むしろ一枚の絵を二十フランで売る方が好きだった。
 なんといううるわしい、気やらかな時代だったことか!その当時の芸術家たちは、何と正しかったことか!

***

みんなでわいわいやっていたピカソも、家で腰を据えて絵を描くようになるんですね。
生活習慣は夕方の4時頃に起きてきて10時ごろまで食事やおしゃべり。それから絵にとりかかる。自分でそういうふうに決めたんだと思いますが、そのやりかたのじゃまをするような訪問者には容赦なく怒ったと言うわけなんですね。そうしないと絵が描けませんよね。
ところが彼の絵の愛好者や画商が訪ねて来るようになり それについては日中に面会。又新しい生活様式にかえるわけですね。なるほど。
酒に溺れたり おしゃべりでおわったりせず 自分の生活を作り上げていくんですね。オリヴィエがいてそういうことができたのか。オリヴィエはピカソのそういうところを非常によく認めていますが たしかにそばにいる女性にしたら信頼できるでしょうね。
それでも絵の具代はつけがたまって あらたに買えなくなる。
スーリエ親爺とのエピソードも面白い。スーリエ親爺というのはピカソの客の一人だけれども えたいはしれぬものの みんなの面倒見はよかった。ある日花の習作が一枚ないかといってきた。いまないから描きましょうとピカソはいった。ところが明日その絵がいるというわけ。
よろしい、明日の夕方お渡ししましょう。ただ絵の具が乾いてないよ というわけなんですが あいてもさるもの「そりゃ困った、せいぜい注意して持って行きましょう」ということに。
ところがホワイトの絵の具がきれている。ツケで買うことは出来ない。「畜生!ホワイト無しでやっつけよう・・・」

こういうシーンを読んでると 元気が出てきますね。多くの画家達が貧乏暮らしをしながら耐えていたんでしょうが ピカソはそんな時どうすればいいか 考えられて そういったことを経験でおぼえていく人だったんでしょうね。
ピカソは自分なりのやりかたを進めるのと同時に その時代にあったものも描けた人だったんでしょうね。
あらゆる画家のやりかたを踏襲して それを絵の具代や生活費に持って行ってたんだと。そしてそういうことでも勉強になっていただろうし。 絵で寿命を縮めてしまうような人ではなかったわけで。
ところがまた「かなり淋しがりやで皮肉で、時には多少憂鬱症的なこの男と」ともオリヴィエはいっています。
しかしそんな苦悩も絵のなかで自己を忘れて没頭できたというわけなんですね。

なんか偉そうかも知れないけど 私にもこれはわかりますね。ここの力があると乗り切られるかもしれませんね。それとこのオリヴィエがいたからでしょう。健康も味方したかもしれません。
ピカソのエピソードを読んで行くと(他の本でも)この人はいろんな面を持っていて それがまわりをひきつけています。 
自分の思う道を 仕事を一生懸命やるし 強いだけではないし 女を愛するときは ストレートだし ところが女をかえるときは つまり次のおんなに一生懸命になっている あってるようで とてもおかしいんだけども なにはともあれ「絵はがんばる」で成立。
いつもいざこざは女同士。ピカソという存在は いろんなことがあってもかわらず 手におえなかったんですかねえ。ひかりはひかりって感じで。

絵は習作とかいてありますね。そう呼ぶんですか。話は変わりますが。
「メドラノ曲馬団」というのはピカソがよく描いたサーカスのあるところだったんでしょうか?

「何といううるわしい、清らかな慈愛だったことか!そして当時の芸術家たちは、何と正しかったことか!」オリヴィエのこの言葉は すごいですね。

いやあ 長過ぎる私の文。まっ、これひとりごとやねん(?)

さいならさいなら

《 2015.04.26 Sun  _  ちまたの芸術論 》