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おたより

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みをぎさん 橋本貫志さんの書かれたものを 読んでいます。
ここには中島敦さんや親族のことがでています。この前は「中島敦展」のことをここでアップしましたね。この写真の印は中島竦之助(中島敦の叔父)が手彫りしたものだそうです。少しずつ書き写します。これを読むとその時代のことがよくわかります。


あとがきにかえて 鑑蔵印のこと

 私が鑑蔵印として使ってきた印がある。
 この印は小説家中島敦の叔父であり、妻都佐子の叔父である、中島竦之助(玉振)が蒐集した物の中の一顆を使っている。
 2005年に亡くなった妻の遺品に一通の書状があった。淀みのない流麗な筆跡の漢文で、墨が途切れることなく書かれたその書状の最後に比多吉(ひたき)と署名がある。その名が私の義理の父親であるということなど、その時には思いもよらなかった。
 私の妻は終戦の時、大連でソ連軍の捕虜となった。生前にそのことは聞いてはいたが、その期間が一年にもなっていたことは私の知らない事実であった。
 同じ時、父親の比多吉もソ連軍に拘束され、拷問の日々を送っていた。喉を焼かれるほどの仕打ちは悲惨なもので健康状態は最悪だったという。拘束から一年近くたって、国際協定に詳しいソ連軍の上官が交代で赴任すると、彼は中国の多くの人々から慕われた戦時中の比多吉の功績を知り、比多吉の拘留を解いて病院に移した。実質的な解放だったのだろう。比多吉は病院をすぐに抜け出し、清から続く皇族の別荘、星が浦へ潜伏した後に帰国の途についた。
 帰国から半年もたたずに、比多吉は亡くなっている。その時、妻は姉とともに大連に残り、父の死から間もなくして日本に帰国できたようだった。

***

この中に出てくる比多吉という人は中島撫山の(中島敦展によると1873年に漢学の私塾を開いた人)の子供になります。 田人は中島敦のお父さんでこの多比吉の兄弟です。 ここまであってますかね? 終戦のとき比多吉はソ連軍の捕虜となっています。 そのむすめさんがこのあとがきを書いた橋本さんの奥さんだというわけです。 大変な時代を生きてこられた人なんですね。 歴史の中の人々ーその人たちが みをぎさんに教えてもらった人であったりすると 無い頭で一生懸命読んでしまいますね。
2014年東京上野の国立西洋美術館の収蔵品に「橋本コレクション 指輪 神々の時代から現代まで 時を超える輝き」が開かれました。この橋本さんのことです。


おたよりおまちしてます。

《 2015.04.15 Wed  _  エッセー 》