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モームさん

スキャン4840.jpeg『月と六ペンス』

イギリスのシェークスピアを信州大学で勉強されていた方がにお目にかかりました。清水先生はその担当教官だったようで 『現代に生きるサマセット・モーム』清水明著のことを御存知でした。こういうことをやっている途中に そういう方と出会えるとなんかうれしいですね。


ニコルズ船長とストリックランドが互いに知り合ったのは、私が 最後にパリでストリックランドと知り合ったあの年の冬の後半のことである。それ迄の数カ月間、ストリックランドがどう過してきたか私は知らない。しかしそうとう暮らしはきつかったにちがいない。その証拠に、ニコルズ船長が始めて彼と会ったのは『夜の宿』だった。その頃、マルセーユではストライキをやっていたから、ストリックランドは既に財布が底をついていても、かろうじて露命をつないで行くに足るだけの小銭すらかせぐことができなかったにちがいない。
(ストリックランドは経済的に苦しかった)
『夜の宿』はおおきな石造建築で、此処で貧民や浮浪者は、証明書が整っていて、監督にあたっている修道士に自分たちは労働者であると説得できさえすれば、一週間ベッドを与えられた。ニコルズ船長は戸の開くのを待っている群衆の中に、とりわけ大きく、風変わりな身なりをしているストリックランドが目についた。群衆はものうげに待っていた。あるものは行きつ戻りつして歩いているし、あるものは塀によりかかり、又ある物は足を溝に突っ込んで補導のへり石に座り込んでいる。そして彼等がぞろぞろと列をなして事務所に進んで行った時、ストリックランドの証明書を読んだ修道士が英語で話しかけているのをニコルズ船長は耳にした。しかし話しかけるチャンスはなかった。何故なら、集会場に入ってみると、修道士が大きな聖書をかかえて入って来て、部屋の端にある説教壇に上り、説教をはじめたからだ。惨めな宿なし共は宿泊の代償としてその説教を我慢して聞かなくてはならなかった。ニコルズ船長とストリックランドは別々の部屋にふり当てられた。そして、ニコルズ船長は朝の五時に、がっしりした修道士に叩き起こされ、ベッドを整え、顔を洗い終わると、もうストリックランドの姿は見えなかった。ニコルズ船長は寒さのきびしい朝の一時間ほどを通りをぶらついて過し、それから船乗りがよく来るヴィクトル・ジュリュ広場へ足を向けた。胸像の台石にもたれてうたたねをしているストリックランドに又であった。
(まるでそのままをうつしている、『夜の宿』のことがよく知りたかったからだ。具体的でよくわかった)
足で蹴って起した。
「おい朝めしをやりにいこう」
「こん畜生」
「文なしか?」
「くたばりやがれ」
「一緒に来いよ。朝めしにありつかしてやらあ」
二人は『一口パン』へ言った。そこでは腹のすいた人間にくさび形のパンをくれる。但し其の場ですぐ食べなければならない。パンを持って外へ行くことは禁じられていた。それから『スープ匙』へ行った。そこでは一週間、十一時と四時に薄い塩からいスープが一椀もらえる。
こうしてチャールズ・ストリックランドとニコルズ船長との奇妙な付合いが始まったのだ。
(なるほど)
二人は付合いながら四月ほど過したらしい。彼等の毎日は一夜の宿と飢えの苦痛を一時押さえる程度の食事を得るに足るだけの金を求めることで一杯だったから。
ニコルズ船長は、彼等が港町の下層生活で発見したことを話してくれたが,その話は本にすれば面白い本になっただろうし、彼等が出くわしたさまざまな人物の中に、悪漢に関する完璧な辞書が書けるほどの資料を楽に見出すことができただろう。
(私の知っているマルセーユを活気のない陳腐なものにしてしまうほどの)
『夜の宿』の戸が二人に対して閉ざされてしまうと(いつまでもいてられないのだな)
タフ・ビルの厄介になった。水夫の宿所の持ち主で、立ち往生している水夫に、口が見つかる迄食物と寝場所を提供した。そこでひと月暮らした。他にスエーデン人、ニグロ、ブラジル人など一ダースばかりと一緒に、タフ・ビルの家の居候共のためにあてがわれた二つのがらんどうの部屋の床に雑魚寝した。
(ふー、こういうふうにしてしのいでいたわけですね、女性はいなかっただろうな どうしてたんやろ)
《 2021.05.23 Sun  _  読書の時間 》