
『月と六ペンス』
しかし私は実際家だから、ストリックランドに取りついている情熱が果して正当なものであるか否かは、彼の作品を見なければわからないと思った。彼がロンドンで通っていた夜学で、学友達が彼の絵をどう思っていたかとたずねた時、彼は苦笑して答えた。
「冗談だとでも思っていたらしいよ」
「パリでも、どこかのアトリエにもう行きはじめているんですか?」
「うん、今朝奴さんが廻って来てね_教師のことさ、おれの絵を見ると、肩をひょいと持ち上げただけで、行っちまったよ」
ストリックランドはくっくっと笑った。意気をくじかれた様子はない。仲間の意見なんか気にしていないのだ。
彼と付き合っていて私を一番まごつかせるのも正にこの点なのだ。他人がどう思おうと平気だ、などとうそぶく人々は、大抵自分自身をあざむいているものだ。大概その意味は、誰もおれの風変りな行動なんかわかりっこないという確信のもとに、好き勝手なことをするというくらいのことで、まあせいぜいのところで、隣人の賛成を受けているので意を強うして、大衆の意見に逆らった行動をしても平気というだけのことなのだ。世間の目の前で因襲に逆らったことをするのも、その因襲に逆らった行動こそ自分の仲間うちでは因襲であるという時には、やりにくいことではない。その際そういう行動をとることは途方もないうぬぼれを感じさせるものだ。身の危険という不便をこうむることなしに自分には勇気があると自己満悦することができるのだから。しかし、人々の賛成を得たいという欲望は、おそらく文明人の最も根強い本能であろう。風俗紊乱のかどで社会から攻撃を受けた新しがりの女ほどす早く、世間体という隠れ家へ急ぐ者はあるまい。だから私は、仲間がどう思おうとへっちゃらさなどという人を信じない。それは「盲蛇に怖じず」の手合いだ。彼等の言う意味は、小さなあやまちに対する非難なんかこわくないさというだけのことなのだ、それもそのはず、そのあやまちは誰も気がつきっこないと確信しているのだから。
しかしここに、真から人の思惑を気にしない男がいる。だからこの男には因襲も抑える手がかりがない。ちょうど体じゅうに油を塗っているレスラーのようなもので、つかもうとしても手がかりがない。だからこの男は自由でいられる。しかしこれは反則である。私はストリックランドにこう言ったのを覚えている。
「いいですか、もし誰もかれもがあんたのように行動したら、世の中は無事に納まりゃしませんよ」
「そんなくだらんことがあるものか。誰もおれみたいな行動をとりたいと思っちゃいないさ。大抵の奴はあたり前のことをするのに、満足しきっているんだ」
又、一度は皮肉ることも試みた。
「あなたは明らかに、この格言を信じておられぬらしい_『すべての行動が宇宙の法則と一致するように行動せよ』」
「聞いた事がないが、とにかく、くだらんたわごとさ」
「へえ、これはカント(1724−1804 ドイツの哲学者)の言った言葉ですよ」
「同じ事さ、くだらんたわごとだ」
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ここは読んでいてもさっぱり分りません 自分には。
しかし「真から人の思惑を気にしない男がいる」ということは分らなきゃ前に進めませんよね。ストリックランドさん あんたのことらしいですよ、どうやら。
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さつまいもを食べながら この茶器の中をのぞいています