こころ 先生と遺書 夏目漱石 つづき
ー彼の重々しい口から、彼のお嬢さんに対するせつない恋を打ち明けられた時の
私を想像してみてください。私は彼の魔法棒のために一度に化石されたようなようなものです。口をもぐもぐさせる働きさえ、私にはなくなってしまったのです。
その時の私はおそろしさのかたまりといいましょうか、または苦しさのかたまりといいましょうか、なにしろ一つの塊でした。石か鉄のように頭から足の先までが急に堅くなったのです。幸いなことにその状態は長く続きませんでした。私は一瞬間ののちに、また人間らしい気分を取りもどしました。そうして、すぐしまったと思いました。先を越されたなと思いました。
しかしその先をどうしようという分別はまるで起こりません。おそらく起こるだけの余裕がなかったのでしょう。私は腋の下から出る気味の悪い汗がシャツにしみとおるのをじっと我慢して動かずにいました。Kはそのあいだいつものとおり重い口を切っては、ぽつりぽつりと自分の心を打ち明けてゆきます。私は苦しくってたまりませんでした。おそらくその苦しさは、大きな広告のように、私の顔の上にはっきした字ではりつけられてあったろうと私は思うのです。