who am ?I

PAGE TOP

  • 08
  • 06

原爆の詩

きのうに引き続き 原子爆弾の思い出を打ってみますね 
原爆詩人 故峠 三吉氏の自宅押し入れから 詩の束を発見したのが 世に出るきっかけとなった(原爆投下後七年後)暮しの手帖より
今日は八月六日(1945年八月六日に広島に原子爆弾が落とされた日)です

原子爆弾の思い出
       小学六年 島 菱男

八月六日の朝、
二階の教室にカバンを置いて、
廊下で友だちと話をしながら
遊んでいた
とつぜん、ピカッと光った
青白く 光ったかと思ふと
真暗になった
誰か、階段の方へと急ぐ後姿が
ちらっと見えた
つづいて、どどーん
といふ音がきこえた
あっと思ったが、
もう、その後のことは何もわからない
何時間たったのか知らないが、
傷の痛みと、身体が大きな材木の下敷きになって
はさまれているので気がついた
出られそうな所は、
ちっとも見えない
今までは、2回の廊下にいたが、
どこに自分がいるのやら、
いっしょにいた友達はどうしたのやら
さっぱり、わからない
とつぜん、上の方で
「ざあー、ざあー」
という音がした。
ぼくは下敷きになっているので
何が降ったのかわからない
遠くの方で、
「早く出て、早く、早く」と
いっている声がちいさくきこえた
ぼくはこの声をきいて
「助けてー助けてー」
大声でどなった
だが、誰もいないのか、
何の返事もない
ぼくは 思わず、
もう、このまま死ぬのかと思って
ため息をした。
何分かたって、
上の方で、誰か、人の声がきこえた
ぼくは、こんどこそと力いっぱい、
「助けて、助けて」と叫んだ
すると上の方で
「よおし、今助けてやるぞ」と
いう声がしたので、
やれやれ、よかったと、
うれしくなった。
だがまた、身体の方々が痛む
まもなく、校舎のたおれた材木
をのけて ぼくを助けてくださった
外に出てみて、驚いた
校舎も町の家々も、ぺっしゃんこに
なって、
あちこちの方から 煙がでていた。
あまりにも、かわった様子である。
ぼくが歩こうと思っても、
両足の火傷と傷の痛みで、
一歩も歩けそうにない
助けてくださった高等工業の
どこかのお兄さんが、
ぼくをおぶって、荒神学校へ
たいひしてくださった時は
大へんうれしかった
荒神学校のたいひごうの中には、
今日のために
死んだ人や重傷、火の傷の人など
たくさんいた
ここでおおきゅう手あてをしてもらった
しばらくして 外へでてみると
荒神橋の近くがもえていた
日和がよいので、
ぼくの傷や、やけどが、
ちかちかと痛む
ぼくは、心の中で
どうなるのかと、びくびくしていた。
左肩の方の傷が、
血がシャツにこびりついていたい。
夜になって、
またまた空襲警報が
はつれいされた
みんな、また原子爆弾を
落としはせぬかと、こわがって、
痛いながらも皆な待避している。
夜ではあるし、
どこがどこやらわからないので、
ぼくは、泣きたいようだった。
ぼくは、まもなく、
母と、おばさんと弟と四人で、
ていしん病院へ入院した。
この病院では毎日、
ガスや、やけどのひどい人が
二人ぐらい死んでいく。
ガスをすった人たちは、身体の中に、
むらさきのはんてんが
たくさん出る
何かわからないことをいいながら、
気違いのようになって
くるって死ぬ人がある。
とても見ておられないほど、
かわいそうだった。
《 2019.08.06 Tue  _   》