「こころ」夏目漱石 先生と私 つづき
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「静、おれが死んだらこの家をお前にやろう」
奥さんは笑い出した。
「ついでに地面もくださいよ」
「地面はひとつのものだからしかたがない。その代りおれの持ってるものはみんなお前にやるよ」
「どうもありがとう。けれども横文字の本なんかもらってもしょうがないわね」
「古本屋に売るさ」
「売ればいくらくらいになって」
先生はいくらとも言わなかった。けれども先生の話は、容易に自分の死という遠い問題を離れなかった。そしてその死は必ず奥さんのまえに起こるものと仮定されていた。奥さんも最初のうちは、わざとたわいのない受け答えをしているらしくみえた。それがいつのまにか、感傷的な女の心を重苦しくした。
「おれが死んだら、おれが死んだらって、まあ何べんおっしゃるの。後生だから(ごしょう)もういいかげんにして、おれが死んだらはよしてちょうだい。縁起でもない。あなたが死んだら、なんでもあなたの思いどおりにしてあげるから、それでいいじゃありませんか」
先生は庭の方を向いて笑った。しかしそれぎり奥さんのいやがることを言わなくなった。私もあまり長くなるので、すぐ席を立った。先生と奥さんは玄関まで送って出た。
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みんな 元気な状態に見える時に こういう会話は あまりしないものですよね