「こころ」夏目漱石 先生と私 つづき
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「なにまだ行くとも行かないともきめていやしないんです」
席を立とうとした時に、先生は急に私をつらまえて、「時にお父さんの病気はどうなんです」
と聞いた。私は父の健康についてほとんど知るところがなかった。なんとも言ってこない以上、悪くはないのだろうくらいに考えていた。
「そんなにたやすく考えられる病気じゃありませんよ。尿毒症が出ると、もうだめなんだから」
尿毒症という言葉も意味も私にはわからなかった。このまえの冬休みに国で医者と会見した時に、私はそんな術後をまるで聞かなかった。
「ほんとうに大事にしておあげなさいよ」と奥さんも言った。「毒が脳に回るようになると、もうそれっきりよ、あなた。笑いごとじゃないわ」
無経験な私は気味を悪がりながらも、にやにやしていた。
「どうせ助からない病気だそうですから、いくら心配したってしかたがありません」
「そう思い切りよく考えれば、それまでですけれども」
奥さんはむかし同じ病気で死んだという自分のお母さんの事でも思い出したのか、沈んだ調子でこう言ったなり下を向いた。私の父の運命がほんとうに気の毒になった。
すると先生が突然奥さんの方を向いた。
「静(しず)、お前はおれより先へ死ぬだろうかね」
*
若い「私」はなにごとにおいても 先生や奥さんのように深刻に考えていません
読者としても 私ぐらいの年齢になりますと この若者のようにはいきません