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こころ 夏目漱石

「こころ」夏目漱石 先生と私 つづき

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 私がのつそつしだすと前後して、父や母の目にも今まで珍しかった私がだんだん陳腐になってきた。これは夏休みなどに国へ帰るだれもが一様に経験する心持ちだと思うが、当座の一週間ぐらいは下にも置かないように、ちやほや歓待(もてな)されるのに、その峠を定規どおり通り越すと、あとはそろそろ家族の熱がさめてきて、しまいにはあっても無くてもかまわないもののように粗末に取り扱いがちになるものである。私も滞在中にその峠を通り越した。そのうえ私は国へ帰るたびに、父にも母にもわからない変なところを東京から持って帰った。昔でいうと、儒者の家へ切支丹(キリシタン)のにおいを持ち込むように、私の持って帰るものは父とも母とも調和しなかった。むろん私はそれを隠していた。けれどももともと身についているものだから、出すまいと思っても、いつかそれが父や母の目にとまった。私はついおもしろくなくなった。早く東京へ帰りたくなった。


「のつそつしだすと」 この言葉は*がついていて調べられる筈なんだけど めんどうなので そのままにしました。でもこころところは まさに私が東京から田舎に帰ってくるとそういう現象が起こるのでした。
のつそつ という言葉もおちつかなくてそわそわするようなことじゃないでしょうか。
私は 休みになって 学校から帰る前 帰った一瞬 しばらくの滞在中 また学校に戻る時 バスに乗った時 電車に乗り継いだ時 東京におりたったとき          それぞれに思いがちがうのでした。

学校から帰る前 それはちょっと ゆうつでした。それが電車とバスをのりついで 田舎の家に帰ると かってはそこが一番の場所だったにもかかわらず その時は薄暗いまるで時が止った場所に入り込んだようでした。奥から出てくる母は少し年老いていて 母はこの時どう思って 私を迎えたのでしょう。
しばらくここに滞在する訳なのですが ここが住みかだった頃とは別のように思えます。それなのに 自分の部屋だった所を 東京の広い部屋に移ったような気分で 机を置き換えたりしてみるのです。
母は はじめこそ娘が食事の支度を手伝ったり 風呂を沸かしたり せんたくものをしたりするのを よろこんだことでしょう。でもすぐ母がするようになります。私が朝寝坊をするからです。母は早く洗濯物を干して 農良仕事に出て 買い物は 歩きだし 遠いからやはりはやく ひがくれないうちにと なるのです。ごはんだっていつもご馳走という訳にはいきません。
そうこうしているうちに夏休みは終わり 私は東京に向かうのです。
私が出発する時の一瞬 両親はどんな気持ちだったのでしょう。
父は バス停に荷物を持って送りに来てくれました。母は行かない時もあったように思います。はじめはバスに乗るのですが そのときはさすがに泣きたくなります。バスは電車の所まで 1時間ちょっとだったかな。 その間は親孝行の一つもできなくて のらりくらりと朝寝坊したことがくやまれるのです。話もあまりあわなくなっていて ふたりを にぎわしてあげることもできなかったこと。後悔で悲しくなるのです。なんて気まぐれな娘だろうと。
ところが次に電車に乗り継ぐ頃になると そういう思いが 切り替わるのです 不思議なことに。そうしてだんだんあの田舎のことがうそのようになっていくのです。
あれ 自分の話になってしまいましたね。
しかし 夏目漱石は私のように長々と説明はしていません。同じことを書いてみることで
そのちがいがよくわかります。

《 2019.03.05 Tue  _  読書の時間 》